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山あり谷あり。
㈱太陽テントの一世紀
大正7年創業。幾多の経営危機を乗り越え、
自慢の一貫生産システムを完成
大型仮設テントやテントハウス、伸縮自在のジャバラテント、さらにはオシャレなオーニング(日除け)や、クリーンルームなどにも使われる透明間仕切りまで、独自の一貫生産システムで多彩な製品を展開する㈱太陽テント(迫田昌良社長、本社東京都足立区)。創業102年を迎える同社の、山あり谷ありの歩み、そして自慢の技と製品について、迫田社長にお話いただきました。
頑丈で低価格
「テント作りで難しいのは構造計算。台風や大雪でも飛ばされたり潰れたりしない、その鉄骨の作り方がミソなんです。うちは構造計算はできないが、どういうテントを作りたいかという基礎的な構造のアイデアを考えて専門の設計屋さんに計算してもらう。基礎設計から鉄骨の製作、膜材の加工、施工まで、当社はこのすべてを自社で賄うので、頑丈で値段の安い製品を提供できる。それが最大の自慢です。メンテナンス、アフターケアもきっちり面倒を見ます。平成26年2月の関東地方の大雪、去年の台風15、19号でも、うちのテントは一棟も潰れていない。お客様からは大変感謝されました」
鹿児島から東京へ
「当社の創業は1918年(大正7年)、今年で102年になります。創業者の父(迫田静夫氏)は鹿児島出身で、11歳の時に家業が倒産して家屋敷山林田畑すべて失ったのを取り返そうと、福岡のテント屋に丁稚奉公に出た。普通は5年10年掛かるところを3年で仕事を覚えたそうです。その後、16歳で故郷に帰り、17歳で『太陽テント商会』を立ち上げました。これが始まりです。
東京に出たのは昭和19年。戦時徴用で葛飾区の亀有に住み着いたのを機に、戦後もそのまま残って仕事を始めたのです。当時のテントはすべて綿布製で、化学繊維はありませんでした。化学繊維はナイロン帆布が最初で、テント屋はみんな飛びついたが、雨で濡れると伸びてしまう欠点があってすぐにダメになりました。うちも大量に在庫が残ってしまい、大変困ったと聞いています。昭和37年ごろのことです。
塩ビターポリンが出て来たのはその後で、うちの場合は昭和39年ごろから塩ビをやるようになりました。東京オリンピックで景気のよかった時代ですが、うちにはそんなことは関係なく、15坪程度の小さな住まいで、1階を工場にして細々とやっていたのです」
43歳にして立つ
「父の後を継いだのは昭和47年、25歳の時です。54年には、足立区に土地を買って本社を移転しました。ただ、当時の私は事業意欲というものが全くなかった。麻雀が大好きで、毎日楽しく仕事をして多少でも儲かればいいという調子ですから、当然経営は行き詰まっていきました。ロクに支払いも出来ず、仕事を取るために駆けずり回るハメになりましたが、たまたまディズニーランドの施設にフリルの膜を施工する仕事を請け負ったことが、ひとつの転機になりました。その仕事がゼネコンさんの眼に止まり、信用を得ることができたのはありがたかった。
とはいえ、その後も経営は楽ではなく、2度、3度と倒産の危機に見舞われました。従業員も増えてきて、何とか食わせなければならないし、自分も苦しい。それで、43歳にして漸く事業意欲に目覚めたわけです。大きな転機になったのは、昭和58年に富士急ハイランドのイベントでテントハウスを手掛けたこと。テントハウスなんてやったこともないのに、やって出来ないことはない、何とかなるだろうと、まあ、クソ度胸ですね。とにかく、人に教えてもらってやり通してしまった。その仕事が次の仕事を呼び、その連続で成長できたのです。あの時、出来ないと言ってしまったら、うちは終わっていたと思います」
人間は信用が第一
「3年前まで東京都テント・シート工業組合の理事長をやっていましたが、最近は会員数も減って、テント業界もなかなか大変です。しかし、ヒートアイランド対策など、テントが貢献できる分野は決して少なくない。うちも、新しい日除け製品を2つ、関連会社のコーケン㈱から来春発売する予定です。
これまでうちは、特別なヒット商品とかオリジナリティといったことに関係なくやってきました。それなりに知恵は使ってるんですが、父がよく言っていたように「人間は信用が第一。信用を得るためには毎日コツコツやるしかない」ということですね。ありきたりですが、結局は誠実。それが私の座右の銘です。