●老舗雨具商が成し遂げた「雨傘革命」
うちは今年で創業294年になります。甲斐武田家の血筋だった武田勝政が、長五郎と名を改めて浅草に「武田長五郎商店」を開いたのが享保6年(1721年)。これが始まりで、当初は刻み煙草を商っていたんですが、二代目長五郎という人がなかなかアイデアマンだったらしくて、煙草を包む油紙で雨合羽を作って売り出したら、軽くて携帯性があるというので、参勤交代の供侍の間で大流行した。それから各藩との取り引きが広がって、四代目の時から完全に雨具商に転向したんです。
浅草合羽橋の、いま道具街になっているあたりは、江戸時代は運河が通ってましてね。菊屋橋という橋が架かっていて、天気のいい日には、その欄干に合羽を並べて塗ったばかりの油を乾かしていたそうです。それが地名の由来になったとも言われています。
そんなことで、江戸から明治維新、日清・日露戦争を経て関東大震災、太平洋戦争と、激動の時代を雨具商として潜り抜けてきたわけですが、昭和28年に9代目の父(須藤三男氏。現会長)がホワイトローズを設立し、世界初の透明ビニール傘を開発したことで、新たな歴史が始まることになりました。
進化し続ける究極のビニール傘
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「カテール」 |
先代の須藤三男氏がビニール傘の原型を完成したのは昭和30年代の初め。以来60年、「透明で完全防水」を誇る同社のビニール傘は、低価格輸入傘の攻勢など、幾たびもの試練にさらされながらも、着実に進化し続けてきました。
昭和50年代半ばには、某都議会議員の依頼で選挙用の雨傘を試作したことから、グラスファイバーの骨、逆支弁構造(傘が裏返るのを防ぐ抜け穴)などを備えた、高級化路線の第一弾「カテール」が誕生(写真)。現在では、その発展型となる「シンカテール」、皇后陛下もご使用の女性向け「縁結(えんゆう)」、大型の墓前読経用「TERRA BOZEN(テラ・ボゼン)」、アウトドア用の「カテール・ピッコロ」と多彩なアイテムがズラリ。先頃来日した英国ウイリアム王子が同社の傘を使われたことも話題になりました。 |
●お客さまを見捨てない傘
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台東区、足立区、墨田区、葛飾区が共同で取り組むTASKプロジェクト(4区内の企業、デザイナーを対象に様々な製品の工場見学バスツアーなど実施して、ビジネスマッチングを促進する活動)も、ホワイトローズのものづくりに注目。写真は、去年の11月に行われたツアーで、参加者を前にビニール傘の話をする須藤社長。 |
いま国内でビニール傘を作って販売しているのはうちだけです。危うく500円の輸入傘ばかりになってしまうところだったのを、辛うじて孤塁を守っている状態ですけど、何より拘っているのは、うちの傘だけは途中でお客さまを見捨てたりは絶対にしない、500円傘のようにノシイカみたいになって捨てるしかない、なんてことには絶対にならない、ということです。
もちろん、何かの拍子で壊れることもあるかもしれませんが、それでも傘の形状はきちっと保ち続けるし、何度でも修理して使っていただける、というのがホワイトローズの商品の身上なんです。ですから、新しい商品を開発するのにも、1年も2年も掛けて悩みながら作っていくわけです。出来上がったものを見れば簡単そうですけど、フィルムを裁断して、高周波ウェルダーで一本ずつ手作業で溶着(はぎあわせ)していくので、そもそも大量生産できるような商品ではないんです。
ただ、そういうことはデパートの傘売り場にぶら下げているだけでは伝わらないんですね。所詮はビニール傘としか思われないし、なんでこんな値段(5千円〜1万2千円)なんだという話になってしまう。それで最近は、うちのような商品にふさわしい販売はどうあるべきなのか、ということをずっと考えています。
●客と作り手の気持ちが繋がる
取扱店を増やして、もっとたくさん売ったらいいんじゃないかといったアドバイスをいただくことも多いんですが、私はむしろ、従来の定石的営業は念頭から外そうと思っています。拡大路線ではなく、販路も絞り込んで、買いにくい状況を作る。ひと言で言えば希少性を高めるということですね。
それに、お客様にとっても、探さないと見つからない、欲しいものにやっとたどり着くというほうが心地いいみたいなんです。この快感を突き詰めていくと、こんなふうにしてこの傘を手に入れたんだよ、この傘にはこんなストーリーがあって、こんな人が作ってるんだというようなことを人に語りたくなる。それは、お客様と我々作り手が気持ち的に直接つながることを意味します。そんな形の販売方法を見つけたいと考えているわけです。
●モノをめぐるストーリーの重要さ
最近うちの傘は祝儀の引き出物に使われたり、子どもが母親にプレゼントしたりすることが多くて、あるお母さんから「私のことを気遣ってくれているのがわかってうれしかった」という電話をいただいたこともあります。つまり、贈る人、贈られた人、そして作った人それぞのストーリーがあるわけで、そういう物語が重要なんだと思います。そういう物語があれば、大切に修理して最後まで使いたくなるはずなんです。
私は、傘というのは風と雨と雪から人間を守るための道具だと思って作っているんですけど、実はお客様とのコミュニケーションツールでもあると認識しているんです。本来、ものを作る人と使う人の間には、そういう直接的なコミュニケーションがあったはずで、村の鍛冶屋さんはお百姓との話し合いの中でより性能の良い農具を作っていったわけです。いまは両者の間にたくさんの障害が介在して、価格設定も含めて消費者とは全然関係ないところで物事が決まってしまいます。でも、うちの商品はたくさんの消費者と直接関わり合わなければならない商品なんです。その関わりをもっと濃くすれば、商品の価値はより高まると思います。
そのためのひとつの案として、5人から10人ぐらいのお客様に集まっていただいてビニール傘のセミナーをやりたいと考えています。傘の歴史やビニール傘の話、我々のような中小企業が国内でものづくりに取り組む意味とかをテーマに、1時間程度のセミナーを想定しているんですが、原則として販売はせずに、新しい商品を手に取ってもらったり、買っていただいた傘を無料でお直ししたりして、うちの商品は使い捨ての消耗品ではないということを実感してもらえればと思います。
●2020年、東京オリンピック開催に向けて
話は違いますが、2020年の東京オリンピック開催が決まって、これから外国の観光客もどんどん増えてきますよね。これは傘業界にとっても大きなチャンスなんです。私はいま東京都洋傘ショール商工協同組合の副理事長を仰せつかっていて、都の助成を受けながら、オリンピックに向けて東京の傘をアピールする活動を進めています。テーマは、@伝統工芸品の指定獲得、A組合員50社それぞれの自社ブランド(東京アンブレラ)の確立、B日本人独特の傘文化の伝達、の3つ。@については、ビニール傘は伝統工芸品の指定基準である100年に満たないので対象外ですが、ものづくりをしている人の地位を高めて次代を担う傘職人を育成するのが狙いです。Aは、東京に来たらこういう傘をさしてほしいということを各社が世界に示すことで、借り物ではない自社のブランドを作り上げようということ。これからの傘屋は、自社ブランドなしに生き残れることはできません。
Bは、日本人の生活と傘の係わり合いを紹介するのが狙いです。日本では雨が降るとみんな一斉に傘をさすというので、向こうの人はとてもビックリするらしいんですね。つまり、彼らにとっては、自分の理解を超えたフシギなニッポンこそ面白いので、合理的なニッポンなんてあまり価値がないんです。いずれにせよ、オリンピック開催まで5年間の活動次第で、2021年以降の業界の行き先が決まると思います。
【取材日2015.4.10】
略 歴 |
すどう・つかさ
1955年、東京浅草生まれ。1983年、ホワイトローズ鞄社。1989年から現職。老舗雨具商の十代目として、また国産ビニール傘のパイオニアとしてチャレンジングな活動を続け、メディアの注目も高い。塩ビ業界主催の PVC Design Award 2013 では、新感覚のビニール傘「雨宿り」(写真)が入賞作品に選ばれた。東京都洋傘ショール商工協同組合 副理事長、(公社)浅草法人会 総務委員長。 |
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