●ホームスパンに魅せられて
なんでこの世界に入ったのかってよく聞かれるんですけど、それほど特別なキッカケがあったわけじゃないんです。ただ、子どもの頃から、何かを作ることや、人があまり価値を感じないようなものに興味があったみたいで、大工さんの仕事場から木材の切れ端を拾ってきたりしてました。
それと、うろ覚えなんですけど、生糸の関係の仕事をされていたらしい父の知り合いが、白い絹糸のサンプルを持って家にみえたことがあるんですね。それを見たとき、なんてキレイなんだろうと思って、ずっと手元に取って置いた記憶があります。そういう興味が次第にものづくりとか、素材の美しさといった方向に自然に結びついていったのかもしれません。
美術のほうに進もうかなと思ったのは高校生のときでした。最初は彫刻をやりたくて地元の岩手大学の特設美術科に入ったんですけど、彫刻研究室に1年ほど通ったころ、地場織物のホームスパンに魅了されて染織の世界に惹かれるようになってきました。
繊維という素材は石や木などと違い、柔軟で、何かで支えていないと自立できない。造形的な可能性という点で彫刻とはまったく対極にあるわけです。しかも、作ったものが実際に人に使われ役に立っている。特にホームスパンというのは、成長する布地というか、長年着れば着るほど体に馴染んでくるんですね。ああ、こんな世界があるんだな、と思って、とにかく染織の世界が単純に面白くて仕方がありませんでした。
ということで、大学では染織を専攻し、ホームスパンをはじめ、様々なジャンルの染織技術を浅く広くひととおり体験した後、もっと本格的に技術を身に付けたいと思って、地元のホームスパンの工房(蟻川工房)で2年間、内弟子として勉強を続けました。
ホームスパン(homespun)と岩手県
英国スコットランド地方生まれの毛織物。本来は「家庭で紡がれた糸」という意味だが、日本では手紡ぎ糸で手織りした毛織物をホームスパンと呼ぶ。明治時代、毛織物の国産化が図られ、官服、毛布などの原料として緬羊飼育が導入されたのを背景に、日本各地の農家で自家用のホームスパンが作られるようになった。
岩手のホームスパン産業は明治14年ごろ、イギリス人宣教師が技術を伝えたのが始まりと言われ、大正期には農家の副業として盛んに作られるようになったが、一方で、工芸的な美しさから当時の民芸運動と結合。運動の提唱者・柳宗悦と親交のあった花巻市の染織家・及川全三(1892〜1985)らにより、民芸としての方向に発展し、岩手県独特の地場産業として受け継がれた。現在、岩手のホームスパン生産は全国の8割を占める。 |
●敢えて伝統から外れてみたら…
ところが、工房で伝統的なホームスパンの技術的な基礎を学んでいるうちに、既成のホームスパンのイメージや伝統から外れたこと、まだ誰もやっていないことを敢えてやってみたら面白いんじゃないかな、という考えが生まれてきたんです。無謀ですよね。でも、糸を紡ぐ、染める、織るといった技術の要素をバラバラにして、自分なりに組み合わせてみたら、ものすごく可能性が広がりそうだと思えたんです。
同じウールでも、羊の種類により様々で、繊維が細く柔らかいものから、太くて張りや弾力に富むものもある。糸の撚りを強くするか弱くするかでも造形的な変化が生まれます。あるいは、ただ織るだけではなく、縫う、縮めるといった技法を使ってみるとか、シルクや麻など違う素材を組み合わせるとか、選択肢はたくさんあって、それぞれを新しい視点から見直してみると、人が行かない道にも意外と面白い方向が見つかるかもしれないという手応えを感じたわけです。
それで、工房から独立した後は、素材も技法もジャンルも限定せず、手当たり次第いろいろなことを試しました。普通ホームスパンは糸を柔らかく紡ぎますが、糸に強く撚りをかけて硬くちりちりにして、ニットのように伸縮する布を織ってみたり、また、織りにくい組み合わせの異素材を敢えて使ってみたりと、常識や約束事を逆手に取って、もう化学実験みたいなものですね。ある程度の予測はできますが、それを超えたものを期待していました。感覚に任せてかなり強引なこともしましたから、予想外の変テコなものを作ったこともたくさんあります。でも、それはそれで面白かったし、そういう積み重ねからまた違ったものづくりが生まれてくるという感じでした。
ですから、もじり織り(雫石町の伝統的な麻織物。経糸と緯糸の構造で六角形の亀甲模様を織り出す。亀甲織り)の技法を取り入れて作ったシルクの布が、1990年の日本クラフト展(主催=公益社団法人日本クラフトデザイン協会)で優秀賞を受賞した時は、とても励みになりました。
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縮む、曲がる、透ける… さまざまなアイデアが光る舞良ワールド |
●職人仕事とアート作品の間で
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盛岡市の工房で機を織る舞良さん。茨城県つくば市(2005〜2006年)などを制作拠点にしたこともあるとのこと。現在は岩手県盛岡市と宮古市に工房を構えて制作を続けている。 |
「実際に使われる」ということは私のものづくりの基本ですが、彫刻を学んだ影響かどうか、実用的な機能のないもの、アートとして表現することにも関心があって、ずっとその両方に跨って、行きつ戻りつしながら制作を続けてきました。
技術的にも感覚的にもお互いが支え合っている感じで、どちらか片一方ではダメなんです。職人仕事だけでは自分で納得できない部分があるし、アート作品だけでも、自己完結してしまっているようで不満が残ります。
作ったものを誰かが買って使ってくれることで、社会と繋がってるんだなと実感できるし、使われないものを作ってもいいんだなという肯定感が得られるんです。
別にアートで社会的メッセージを伝えるとか肩肘張った気持ちじゃなくて、何かもやもやした思いを形にしているだけかもしれませんけど、私自身にとっては必要なことなんだと思っています。
●最大限自由に、面白く
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セシリエ・マンツさんとのミーティングの様子。お二人は、一般社団法人ジャパンクリエイティブが、インテリアの国際見本市『アンビエンテ2014』(2014年2月、フランクフルト)に出展するプロジェクトに参加して、ホームスパンの新しい可能性をテーマにした作品を共同制作する予定。 |
それと、ひとつのスタイルができて、それが人から評価されると、ついつい自分でもそのスタイルを後追いして飽和状態になってしまうということもありますから、何か違うタイプの仕事をいただくとか、その仕事の中でいろいろな人と出会うといった機会を、私はとても大切にしています。
その出会いの中から、自然に新しい可能性が生まれてくることだってありますからね。今年はデンマークのプロダクトデザイナー、セシリエ・マンツさんと、ホームスパンの新しい可能性を引き出すコラボの仕事が予定されていて、自分の仕事がこれまでとは違った文脈で解釈されるというか、自分では気づかない特徴を見出してもらえるんじゃないかと、いまから楽しみにしています(写真参照)。
とにかく、やってみたいことは本当にいっぱいあるんですけど、制作時間は限られているので、優先順位をつけながら、機会をいただいたら、その中で最大限自由に面白いことをやってみたいなと考えています。
【取材日2013.8.5】
略 歴 |
もうりょう・まさこ
1961年、岩手県宮古市生まれ。85年、岩手大学教育学部教育専攻科修了。85〜86年まで蟻川紘直氏に師事。98〜2005年、岩手大学非常勤講師。
インターナショナルクラフトコンペティション(1991年、独ミュンヘン)、朝日現代クラフト展招待出品(2004年、大阪)、ギャルリ百草暮らしの造形V PETER IVY 舞良雅子(2012年岐阜)などのグループ展、布を知るワークショップ(2003年、岩手県立美術館)、Ecru+HM(2004年、東京銀座)、素材から見えるもの(2012年、萬鉄五郎記念美術館・岩手)などの個展を通じ、その独創的な作品は広く内外で親しまれている。
日本クラフト展優秀賞(1990年)、ジャパンクリエーション2003テキスタイルコンテストシルク部門賞(2002年)、岩手県美術選奨(2003年)など受賞。 |
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