化学物質の適正管理と平成21年化審法改正
経済産業省 化学物質管理課 化学物質リスク分析官 及川 信一
平成21年5月に、化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律(以下「化審法」と略します。)の改正法が国会で可決し、平成22年4月から施行されます。
今般の法改正の主眼は、2002年(平成14年)に開催された『持続可能な開発に関する世界首脳会議(WSSD)』で合意された、「化学物質の製造・使用について、2020年(平成32年)までに、人の健康や環境への著しい影響を最小限にする」との目標の実現に向けて、法制度を整備することです。また、既存化学物質(昭和48年に「化審法」が施行されましたが、その時点で既に製造・輸入されていた化学物質のことを指します)の取扱いや新規化学物質の審査の位置付けに大きな変更をもたらす改正となります。以下に化学物質適正管理制度に関する歴史的事情や関連する課題をいくつか紹介すると共に、今回の法改正に基づく新制度と施行スケジュールの要点を整理させていただきます。
●工業化学物質の安全性を確保する法制度の特徴
我が国や欧米では、1970年代から1980年代にかけて、新しい工業化学物質を製造・輸入する際に、事前に政府に届出ると共に安全性の確認を受ける法制度が相次いで整備されました。
背景としては、それまで熱媒体、殺虫剤等の用途で優れた品質や性能を賞賛されていたPCB、DDT等の化学物質(ちなみに、DDTの殺虫効果を発見した科学者はノーベル生理学・医学賞を受賞しています)が、長期に亘り環境中に残留し、ヒトの健康や動植物の棲息に悪影響を与える恐れがあるという負の側面が問題となった一方、工場の排ガス・排水規制のような公害防止型の環境対策では十分でないと判断されるに至ったためです。
こうして各国で導入された初期の制度には次のような特徴があります。第一に、法律が制定される前から製造・輸入されていた化学物質は、“既存化学物質”と呼称され、改まった安全性の確認を受けなくても継続的に製造・輸入ができる制度となっていることが多かったことです。第二に、法施行以降に製造・輸入された“新規化学物質”については、その安全性を、個々の化学物質が固有の性質として持っている毒性等の有害性に基づいて判断(ハザード評価)することです。近年は、後述のようにリスク評価に基づく判断が主流となっています。
既存化学物質については、その後、安全性データ整備の遅れが大きな課題となり、OECDで各国が協力してデータの集積が進められたほか、EUでは抜本的な法制度の見直し(REACHの導入)等の取り組みが進められました。我が国では、後述の平成21年化審法改正で、既存化学物質も含めた安全性点検(リスクの評価を基礎とする)を実施する法体系に改められました。
●ハザード評価からリスク評価へ
リスク評価とハザード評価の違いは、具体例を考えてみると分かりやすいでしょう。例えば2つの化学物質AとBで、ヒトの健康に悪影響を与える最小量が、Aは0.1グラム、Bは0.2グラムと仮定します。Aの方が少ない量で影響が出るので、毒性は強いことになります。ハザード評価の考え方だと、BではなくAを規制することが合理的となります。
しかし、人間が、AやBに晒される(“ばく露”される)量を考えると結論は必ずしもそのようにはなりません。仮に、普通の気温で、AよりもBの方が4倍蒸発しやすい物質であったとしましょう。そうすると、Bの空気中の濃度はAの空気中の濃度の4倍になるので、人間の体内に入る化学物質の量はBがAの4倍になります。つまり、AとBとを同じ用途に使用したとき、呼吸によりAが0.1グラム体内に入る状況であれば、Bは0.4グラム体内に入ると考えられます。Bの方が有害性は低くともばく露量が大きいため、実際の危険性はBを使用した場合の方が大きくなると考えられます。つまり、Bを規制する方が合理的ということになります。
このように、人間の体が化学物質に晒されて(“ばく露”して)、化学物質を体内に取り込んでしまう量も考慮して危険性を評価する考え方が、リスク評価です。
“ばく露”を考えることで、より現実的な危険性を考えることができます。例えば、毒性がある化学物質であっても、ガラス瓶や機械装置に閉じこめられて外に出ないように管理されているのなら、人間に危険は及ばないでしょう。
しかし、このようにより合理的と考えられるリスク評価に立脚してもなお判断の難しい問題が色々とあります。一例として、カーテン等に使われる“難燃剤”を考えてみましょう。火災のリスクを下げるため、カーテン素材には燃えにくい材料を使うことが望ましく、難燃性を高めるための“難燃剤”がしばしば使用されます。当然ながら、難燃剤には毒性がない(弱い)ものが推奨されます。
難しいのは、優れた難燃剤が動物実験で毒性をも示した場合です。
火事に巻き込まれて死亡するかもしれない危険(リスク)と、カーテンに含まれる“難燃剤”から日常的に受けるかもしれない毒性に起因する健康影響による危険(リスク)とどちらが大きなリスクかを比較して考える必要があり、現時点で定量的な答えを得ることは容易ではありません。
良く“予防原則”という言葉が使われます。“疑わしきは罰せず”の逆で、“疑わしい場合は、問題があると仮定して規制などの対策を講ずる”との考え方です。もちろん、難燃性が高くて毒性がない(弱い)物質があればそれが一番良いのですが、そのように都合の良い物質はなかなか見つからないのが実情で、火災のリスクと健康影響のリスクという2つのリスクのどちらの回避を重視するかを選択することが必要になる場合があります。
一方、動物実験で見られた毒性が人間でも現れるとは限りません。これは、主に、実験動物と人間とでは、体内で化学物質を代謝する機構が異なることがあるためです。実験で多用されるラットやマウスなどの齧歯類(げっしるい)で毒性が見られた場合、もっと人間に近いと考えられる動物(例えば、霊長類のような)を使って検証実験を行うことがあります。
しかしながら、齧歯類で見られた毒性が霊長類で見られなかったとしても、トータルの毒性の判断においては安全重視の観点から “毒性有り”と見なし、霊長類での実験結果は、“実験で使用した霊長類で毒性が現れない理由と同じ理由で人間にも毒性が現れないこと”が具体的に説明できないと考慮されない傾向があります。このように動物実験の結果についても予防的な観点から、丁寧、かつ、安全サイドに立って評価されるのが一般的です。このため、あまりに予防原則に頼り過ぎると利用できる物質が無くなってしまうようなことも起こりえます。
また、毒性は見つかっているが毒性、物性等のデータはよく揃っていてそのリスクを適切に管理することが十分に可能な化学物質を、まだ毒性があまり分かっていない化学物質に替えることは、必ずしもリスクの削減につながるとは限らず、逆にリスクを高めてしまうこともあります。替えた後の化学物質について、毒性テータを詳細に揃えるには色々な試験を行う必要があり、相当の時間とコストがかかるため、ある化学物質をいわゆる代替物質に転換する際に、替えた後の代替物質のリスク評価を元の化学物質と同程度に実施することは容易でないことが多いと言う問題があるのです。
即ち、異なる種類の危険性(リスク)や異なる物質のリスクを比べて考える場合は、どちらか一方を過大(過小)に考えずに、実際の使用状況とその便益、さらに実施可能な管理方法なども含めてバランス良く考えることが重要です。
この例からも分かるように、過去30年来、欧米や我が国で長足の進歩を遂げたリスク評価ですが、まだ今後の課題が残っており、経済産業省他関係各省は、最新の科学的知見に立脚して的確な判断ができるように、必要な研究を進めているところです。
●平成21年化審法改正の要点
既存化学物質の扱い
これまでは、既存化学物質については、生分解性(環境中での分解のしやすさ)、蓄積性(摂取された際に体内で蓄積する度合い)、スクリーニング毒性(毒性試験の基礎となるもの)。変異原性(遺伝子に異常を生じさせる可能性)、28日間反復投与毒性(齧歯類に28日間投与した際に現われる様々な健康影響)、及び、生態毒性(藻類・甲殻類・魚類の三種生物への毒性)の観点からハザード評価を行い、その結果から懸念のある化学物質は、第一種監視化学物質(難分解性かつ高蓄積性で、人又は高次捕食動物への長期毒性の有無が不明なもの)、第二種監視化学物質(高蓄積性ではないが、難分解性で人への長期毒性の疑いを有するもの)、又は第三種監視化学物質(高蓄積性ではないが、難分解性で、動植物への長期毒性の疑いを有するもの)に指定してきました。また、指定された化学物質については、製造・輸入数量等の届出義務が課されていました。
ちなみに、第二種監視化学物質はヒト健康影響の観点から選定され、第三種監視化学物質は動植物影響の観点から選定されるので、一物質が第二種及び第三種に同時に該当する場合もあり得ました。第一種監視化学物質で、長期毒性が明らかになれば、第一種特定化学物質への指定が検討されます。また、第二種監視物質、及び、第三種監視物質で、それぞれ、毒性が判明すれば第二種特定化学物質への指定が検討されます。
つまり、第二種特定化学物質への指定根拠は、ヒト健康影響の観点と生活環境動植物への影響の観点と2通りあり、少なくともいずれか一方で長期毒性が一定レベル以上であれば、相当広範な環境において残留しているなどの場合において、リスク評価(有害性評価値と環境経由のばく露量とを比較する評価)の結果に依拠して第二種特定化学物質に指定される場合があります。
今般の化審法改正では、第一種及び第二種特定化学物質、第一種監視化学物質、新規化学物質のいずれにも該当しない化学物質全般を一般化学物質と区分し直した上で、一般化学物質のどれかを年間一トン以上製造・輸入した事業者に対して、製造・輸入数量等の届出義務を課しています。
注目すべき点は、過去、良分解であることのみを根拠に化学物質審査で白判定を受けた化学物質は、その際に新規化学物質であったか既存化学物質であったかを問わず一般化学物質に含まれることとなります。また、ハザード及びばく露データから優先的にリスク評価を進めていく必要があると考えられる化学物質を優先評価化学物質と位置付け、一般化学物質よりも詳細な情報の届出を義務付けています。
さらに、これまでは良分解性であればハザード評価をせずに規制の対象外としていた取扱いを変更しています。つまり、良分解性物質であっても、ハザードや環境排出量等を考慮し、リスクの懸念がないとは言い切れない場合は、優先評価化学物質に指定することとしました。
加えて、一般化学物質に関して有害性の試験結果がない場合は、一定の有害性があるものと“仮定”した上で優先評価化学物質に指定する必要があるかどうかを検討し、リスクの懸念がないとは言い切れない場合は、安全サイドに立って、優先評価化学物質に指定するという運用を行う見込みです。
新たな仕組みの実施の第一歩として、公的に信頼性が確認されている有害性データが存在するPRTR制度対象物質の中から、良分解性であってもスクリーニング毒性や生態毒性の点で第二種又は第三種監視化学物質に該当する物質を選定する作業が進められています。
この追加指定候補物質は、昨年末に開催された3省合同の審議会で判定を受けており、本年4月に告示で指定される予定です。指定された物質については、平成21年度の製造・輸入数量等の届出(届け出期限は平成22年度早期の見込み)が義務付けらます。そして、平成22年度内に、これら良分解も含めた第二種又は第三種監視化学物質の中から、優先評価化学物質の選定が審議会で行われる予定です。ただし、告示による指定は平成23年度以降となります。
また、一般化学物質の中からの優先評価化学物質の選定は、平成23年度以降実施する予定です。これは、選定作業に際して考慮すべき一般化学物質の製造・輸入数量、用途等の情報が、平成23年度早期に届出がなされる平成22年度の実績が最初で最新の情報となるためです。また、平成23年度から、第二種及び第三種監視化学物質の区分は廃止される予定です。従来の第一種監視化学物質は「監視化学物質」と改称されて残ります。
選定された優先評価化学物質に関する引き続きのリスク評価は、まず、法定の届出情報から推計されるばく露量に基づくリスク推計による更なる優先順位付けから始まります。そして、既存情報を追加して行うばく露要件該当性を判断するための詳細な評価を行います。
リスクの懸念が残る場合は、事業者等から得た排出実態等の新たな情報に基づいて、事業者等から更なる有害性データの提供を求める有害性調査指示を発動するかどうかを判断するためのリスク評価(この手順・内容も複数段階となる可能性があります)を行います。そして、有害性調査の結果を踏まえ、優先評価化学物質が第二種特定化学物質に該当するかどうかを判断するための最も詳細なリスク評価を行うという、多段階のリスク評価が行われる見込みです。
経済産業省、厚生労働省及び環境省は、公開されており信頼性があると考えられるばく露評価関連情報や有害性評価関連情報を最大限に入手・活用して適切なリスク評価を進めていこうとしています。
こうした中、リスク評価をより正確で信頼性が高いものにするために、企業には排出係数の実測値、独自に実施した有害性試験のデータ等リスク評価関連情報を国に提出することが期待されます。これは、リスク管理により、有用な化学物質を有効に活用していく上で企業が行うべき重要な取組です。
●新規化学物質の審査
新規化学物質については、平成23年3月末までは、現在の化審法が実施しているハザード評価に依拠して、審査の時点で第二種及び第三種監視化学物質に該当するか否かの判断がなされます。
しかし、平成23年4月1日以降は、審査の時点では、第二種及び第三種監視化学物質に置き換わり新設される優先評価化学物質に該当するか否かの判断は行わず、審査でなされた有害性についての判断に加え、製造・輸入量等も踏まえて、優先評価化学物質に該当するか否かの判断を別途行うこととなります。こうした仕組みの詳細については、現在検討を行っているところです。
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