リスク心理学が読み解く 「一般市民のリスク感覚」
人々は何に不安を感じるのか。 研究者の理論とは異なる大衆心理の実態を探る
帝塚山大学心理福祉学部 教授 中谷内 一也 氏 ●安心と安全はなぜ両立しないか リスク認知という研究分野は、1970年代末にアメリカの社会心理学から出てきたもので、安心と安全はなぜ両立しないのか、という問いかけがその出発点になっています。例えば、先進国では平均寿命がどんどん伸びてきて、致死的な伝染病もかなり克服され、これまでの人々に比べて最もプロテクトされた文明社会が実現したのに、人々は「自分たちは今ものすごいリスクに晒されていて、かつてより危険な社会に住んでいる」と認識しています。人間には、安全になればなるほど不安が高まって、さらに安全を求めるという傾向があって、こうした「現実と心とのギャップ」はなぜ起こるのかということがリスク認知研究のスタートだったわけです。 リスク研究の専門家は、リスクというのは「嫌なことが起こる確率×結果の程度」というふたつの要素で構成されると説明します。例えば、脂肪の取りすぎで循環器系の病気になる確率は、摂取量に対してどれぐらいかを定量化する。これがリスクの考え方です。 リスキーな対象がいろいろあって、その中からよりリスクの低いものを選ぶというとき、人間が合理的だと仮定すればこの原理に従った意思決定をするはずですが、実態は必ずしもそうはなっていない。それは、リスクに対する専門家の見立てと一般人の感じ方とは違うということを意味します。合理的でもなく普通に生活している人々は実際には何をリスクと感じ、どんな選び方をしているのか。そのギャップを調べなければ人々が本当に安心できる対策も立てられない。そういうことを明らかにするのが、リスク認知という心理学的研究の主眼といえます。 ●「恐ろしさ因子」と「未知性因子」 では、人間は何をリスクと感じるのでしょうか。リスク認知の第一人者であるポール・スロビック心理学教授(「Decision Research」研究所長)が1987年にまとめた研究では、一般人のリスク認知はふたつの因子から構成されるとしています。 そのひとつは「恐ろしさ因子」です。飛行機事故と自動車事故を比べると、自動車事故で死ぬ人のほうがトータルでは遥かに多いのに、人は飛行機事故のほうをより恐ろしいものと捉えます。累積した数よりも一挙にたくさんの人が死んだり、あるいは、原子力発電所がメルトダウンするというような、確率は低いけれども致死的で、いったん発生したら世界規模の惨事をもたらす潜在力があり、自分でコントロールできないような被害に否応なく晒されるといったことに対してより怖いという気持ちを持ちます。 もうひとつは「未知性因子」です。人間は昔からあるもの、科学的に分かっているものには恐ろしさを感じませんが、なじみがなくて、その影響が外部から観察できないようなものに対しては強いリスクを感じます。これは先に述べた研究者が考えるリスクの考え方とは大きく異なるもので、研究者と一般市民のリスクの捉え方がこれだけ違うと、研究者がいくら「このリスクは定量的に見て10万分の1だから大丈夫」といっても、市民にはなかなか受け入れられません。「その中にもし自分の子どもが入っていたらどうするの」ということになってしまいます。
むしろ、そういうリスク認知の押し付け方をすると、却って円滑なリスクコミュニケーションが阻害されてしまいかねません。
●リスク管理者への信頼の問題 それと、この10年ほどの研究では、リスク管理者に対する信頼も一般市民がリスクを認知する際の大きな要素だと考えられるようになってきています。動物園に猛獣がいても子どもたちが平気で遊びにいくのは、きちんと管理されていると信頼しているからで、管理者や責任者に信頼が置けるかどうかによって一般の人はリスクの大小を判断しているわけです。 信頼される責任者とはどんな人かというと、伝統的な社会心理学の理論では、ふたつの因子を挙げてこれを説明してきました。まず専門知識や専門能力があること、そしてもうひとつは、誠実、公正で私利私欲がないということです。従って、人から信頼されるためには、このふたつの因子が等しく満たされていなければならないわけですが、産業界などを見ていると、どうも能力因子の重み付けのほうが高すぎるような気がします。 例えば、どこかの工場で何か事故が起こったとします。この場合、業界の人はしばしば技術力を使ってもっと安全にしようという対策を取り勝ちですが、一般の人はその会社が無能だから事故が起きたとはあまり思っていないことが多い。むしろ情報を隠蔽しようとしたとか、説明が不誠実だといったことに怒りや不安を感じているわけです。 つまり、実際は誠実さ因子が傷ついて信頼が落ちたのに、能力因子を一生懸命上げようとしても無駄だということです。もちろんその逆もあって、技術が低くて事故が起きたときに、いくら誠実さやまじめさで対処しても仕方がない。ですから、このふたつの因子のどちらによって信頼が落ちているのかをよく見極めて、対処法を考える必要があると思います。 ●信頼の新しい形「SVSモデル」 但し、以上はまだ伝統的な社会心理学の信頼モデルの話で、最近はそれだけでは説明できない新しい理論が必要になってきました。それが主要価値類似性(SVS)モデルと呼ばれる理論で、現在ぼくの大きな研究テーマでもあります。SVSモデルとは要するに、ものの見方とか社会のあり方に対する意見とか、主要な価値を共有しているということが人を信頼する大きな要素になっている、という考え方です。 例えば、人がある問題に深くコミットしている場合、その問題の解決を誰かに任せるとしたら、できれば自分と同じ考えを持ち自分が思っていることを実現できる人に任せたいと思うはずです。逆に、その問題に関心も利害関係もない人は、自分の価値観がないわけですから、公正中立な人が安全基準を設定すればいいと考えます。後者の心理は伝統的な信頼モデルで説明できますが、前者はそれだけでは説明できません。 つまり、現代の社会では専門能力や誠実さ以外に、こうした価値観の違いということも人々の信頼感を構成する大きな要素となっているので、信頼が失墜したり信頼を構築したいと思った場合には、どの要素に力を入れるか、それぞれの層に対応した方法が必要になってくるということです。 工場でトラブルが起こって近隣住民が不安に思ったら、これが科学的な対策だとか、我々はWHOの基準に則ってやっているとか言うよりも、まずは「私たちも一市民として工場から何か漏れたりしたら不安を感じますから、皆さんの気持ちはよく理解できます」と伝えること。相手と同じ価値を共有していることが伝わらない限り信頼は得られません。科学性や客観性を強調しすぎると、「お前たちに我々の気持ちが分かるか」ということになってしまいます。 ●「人工は悪、自然は善」なのか?
リスク認知研究には他にもいろいろ成果が出ていますが、基本的には、先に述べたリスク認識の2要素と信頼の重要性ということが骨格になっていきています。 ところで、こうした理論に基づいて塩ビの問題を考えると興味深いことに気づきます。というのは、塩ビはリスク認知の2要素にも当てはまらないし、塩ビを扱っている管理責任者が信頼できないというわけでもないのに、なぜ塩ビをハイリスクと見る人がいるのかということです。 塩ビが原因でたくさんの人が死んだとか大事故があったということではないので、恐ろしさ因子はさほど高くない。しかも、長いこと社会で利用されてきた製品ですから未知性も低い。最近の食品事件のように塩ビメーカーがひどい悪事を働いていたとか、消費者を裏切っていたということも聞いたことがありません。それなのに、なんで反塩ビの人がいるのか? 以下は私見ですが、もしかしたらこの問題はヒューリスティクス(heuristics)のモデルで説明できるかもしれません。私たちがある物事を判断する場合、いろいろな情報を丹念に収集、吟味して合理的な最終判断に至るということは実は少なくて、むしろ判断結果に多少の誤りや偏りがあっても経験則に基づいて直感的にエイヤッと決めてしまうほうが多い。これが心理学で言うヒューリスティクスですが、そのひとつに「人工物は悪、自然物は善」という判断基準があります。 つまり、塩ビは長期間、社会のいろいろな場面で使われてきたので、人工的な化学合成品の代表みたいになってしまい、そのためにネガティブで不自然なものという捉え方をされるようになったのではないでしょうか。塩ビ管のように目立たないところで働いている製品はベネフィットの部分もなかなか認識されにくいし、そこにダイオキシン問題のようなことが起こると、「ああ、やっぱり」という感じでするっと結びついてしまう。そういうことだったのではないかと考えられます。 ただ、「人工物は悪、自然物は善」という判断は決して固定的なものではないと思います。本来、自然は人間にとって危険なものだったからこそ身を守るために生まれた人工物が、今では危険で、自然に害をなしていると見られるようになったのも、時の移り変わりです。しかし、今の子どもたちは普通に様々な人工物と付き合っていて、石油製品や塩ビ製品もごく身近なものになっているようです。正確な情報を提供して地道にリスクコミュニケーションに取り組んでいくことで、人工物は悪いと考えるヒューリスティクスも少しずつ変っていくに違いありません。 ●双方向のリスクコミュニケーションを リスクコミュニケーションのあり方を考える上で、非常に大事なのは双方向でなければならないということです。専門家が言うように正確で科学的な情報を伝えることはむろん必要ですが、一般の人がどう思っているかを聞くということも同様に大切だといえます。 ある研究では、その会社が聞く耳を持っていると感じたときに一般市民は信頼を感じる、という結果も出ています。一方的に伝えるだけでなく、例えばお客様相談室のような話を聞くための窓口を設けることでもいいと思います。オープンとか透明性というとメッセージを送ることとばかり思い勝ちですが、市民はむしろこっちの言葉を聞こうという姿勢を持っていることに「ああこの会社はオープンだ。公開性が高い」と感じるのです。 相手が何を考えているかを理解せずに、自分の見方だけを一方的に送ってもリスクコミュニケーションはうまくいきません。会社にとっても、一般の声を聞くことで「こうだったのか」と逆に気づくことも少なくないはずです。確かに、窓口を開いても偏りの強い人やクレーマーのような人ばかり集まってきて、本当に知りたい一般市民の声はなかなか聞けないということもあるでしょう。生産性が低いと感じられるかもしれませんが、対話のチャネルを常に開いておくという、そのこと自体が大事なのです。自分では積極的に意見を伝えたり投書したりしなくても、聞く耳を持たないという姿勢を感じ取ったら人は信頼しなくなります。 これは外国の話ですが、以前、ある化学メーカーの工場で異臭騒ぎがあったとき「住民に鼻になってもらう」ということをやったそうです。つまり、住民に協力を求めて、何かおかしな兆候に気づいたらすぐに通報してもらい、24時間以内に必ずその理由を探って通報者に連絡する。そのことで住民の安心を高め、同時にトラブルや事故の発生を素早く察知する。こうした住民を巻き込んだ取り組みによって窮地を乗り切ったといいます。リスクコミュニケーションのあり方として、双方向ということがいかに大切かを示唆する好事例だと思います。
略 歴 |
なかやち・かずや 1962年大阪府出身。同志社大学大学院文学研究科心理学専攻。博士(心理学)。関西女学院短期大学コミュニケーション学科専任講師、静岡県立大学経営情報学部助教授、米オレゴン大学客員研究員などを経て、2001年、帝塚山大学人文科学部教授。2004年から同大心理福祉学部心理学科教授。 消費者行動の研究に携わった経験からリスク研究の分野に関心を抱き、現在は一般市民のリスク認知とリスク管理責任者への信頼問題をテーマに活動を続ける。主な著書に、『環境リスク心理学』(ナカニシヤ出版)、『ゼロリスク評価の心理学』(ナカニシヤ出版)など。近著『リスクのモノサシ』(NHKブックス)が、リスク蔓延社会に生きる人々が個々に判断できるようなリスクのモノサシづくりを提案したユニークな試みとして話題に。日本リスク研究学会研究奨励賞(1995年)、日本心理学会研究奨励賞(1999年)受賞。 |
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