2006年6月 No.57
 
メディアは「科学」をどう伝えるべきか

  「人間と科学との乖離を埋める」
   サイエンスコミュニケーションの重要性



 読売新聞 編集委員  小出 重幸

●科学のインタープリター

 
  私はもともと化学専攻の人間で、大学では理学部で高分子化学の勉強をしていました。初めはそのまま化学の領域に留まることも考えたのですが、結局ジャーナリズムの世界に進むことになったのは、たまたま受けた新聞社の試験に通ったからともいえますが、ひとつは、ジャーナリズムを通じて、科学のプラス面、マイナス面を伝える、いわば科学のインタープリターとして働くのも面白そうだと思ったためです。
 それともうひとつ、新聞記者になるときに感じていたのは、これだけ世の中に科学の成果が普及してくると、それを使う人間と科学との乖離が進んでいろいろなトラブルが起きてくるに違いない、そして、いずれはその乖離を埋める作業が必要とされるようになるだろうという予感でした。
 ただ、入社してすぐに科学部記者になったわけではなく、はじめの5〜6年は地方支局で警察担当の事件記者、それから本社に戻って社会部、生活情報部の仕事をした後に、ようやく念願の科学部に異動できたのですが、人間と科学との乖離を埋める作業が必要になるという予感はやはり誤っていなかったと思います。
 現在の環境問題も化学物質の問題も、その根底にはすべてこの人間と科学の乖離という問題が横たわっています。そして、近年注目が高まっているリスクコミュニケーションやサイエンスコミュニケーション、サイエンスリテラシーといった考え方は、いずれもその乖離を埋めるための道を模索する試みといえます。
 

●情報の真偽を見極める視点

 
  科学部が扱うテーマは、素粒子やニュートリノといったミクロの世界から宇宙の果てのマクロの話まで、さらにはその間で起こる地球の気象や地震、環境問題、IT技術も含めて、まさに森羅万象です。取材の幅が非常に広く、それだけやりがいもある仕事と言えます。
 問題は、そうした様々なテーマを伝える上で何が重要なのかということです。いつ、どこで、誰が、どうして、どうなったという、いわゆる5W1Hが報道の原点であることは、科学部でも経済部や社会部でも変わりません。基礎的情報を取材し、それを論理的に組み立て、その先に何があるのか、どの方向にどれぐらいのベクトルで問題が動こうとしているのかを捉え、それを社会という座標軸の上にプロットしてみせるのが我々の仕事です。
 それと同時に、ジャーナリストに要求されるもうひとつの重要な視点は、取材した話のどこまでが事実で、どこに思い違いや虚偽の情報が混じっているのか、その輪郭をはっきり見極めねばならないということです。
 例えば、ダイオキシン問題が騒がれたときも、所沢の葉物野菜が危ないといった様々な不確実な情報が入り乱れました。そういう情報のどこまでが本当でどこに嘘があるのか、どの部分を伝えればいいのかを判断するのは大変難しいことですが、これはメディアのコミュニケーションのあり方にとって最も重要な部分なのです。
 最近の例では、家電の「マイナスイオン」という実態がよく分からない言葉が飛びかっています。メーカーでは体にいいと宣伝しますが、広報担当などの話を聞いても生理学的意味、効果を裏付けるデータが分からない。読売新聞にも、時にこうした商品の紹介記事が載ることがありますが、私たちは記事をできるだけ相互チェックして、実態が分からないから、少なくとも体にいいとか健康にいいという表現は止めたほうがいいなど、担当の編集者やデスクと話し合うようにしています。
 マイナスイオンに関わらず、科学的な内容を伝える以上は、例え商品の紹介であっても科学の枠の中で、データに基づいた表現でなければなりません。そうでないと、不確かな情報がメディアを通してフレームアップされかねないし、科学的に理解しようとする読者の努力を損なうことになってしまいます。
 

●環境ホルモン報道が残した教訓

 
  そういう点で、環境ホルモンに関する報道も我々に様々な教訓をもたらしてくれたと言えます。環境省の調査結果「化学物質と環境」(黒本)が「内分泌かく乱の可能性があるビスフェノールAが日本の河川から検出された」ことを報告したのは、1998年の1月。そのときの新聞の第1報では「内分泌かく乱を起こすとされる物質」という比較的事実に即した言葉が使われていましたが、翌日には殆どのメディアが「内分泌かく乱物質のひとつ」という表現になり、いつの間にか「可能性のある物質」が「環境ホルモンのひとつ」に変わってしまいました。これが事実関係の最初の食い違いでした。
 それからは、新聞にも不安を煽るようなコラムが載ったり、週刊誌やテレビもだんだんエスカレートしてきて、「猛毒」「人類滅亡」「衝撃の生殖破壊」とったエキセントリックな見出しが誌面に躍る、民放テレビのニュースショーは虚実ない交ぜの討論番組を流す、といった異常な状況が続きました。
 この一連の流れから得られる第一の教訓は、科学的事実とメディアの報道があまりにかけ離れてしまい、その結果社会を混乱させた、というデメリットの部分です。果ては母乳も危ないから止めたほうがいいとまで言われ、母乳のメリットとデメリットを冷静に判断することもなく、イチかゼロか、黒か白かという議論に突っ走る傾向が出てきてしまいました。
 一方、メリットもありました。そのひとつは、科学者がこれまで光を当てなかった領域にも、生態系あるいは人間へのリスクがあり得るということがきちんと指摘されたことです。これにより、政府も敏感に反応して調査に着手した結果、当初心配したほどではないという実態も分かってきたのです。
 化学物質のリスクに関する話は、報道も含めて、往々にして白か黒かの議論になりがちです。しかし、本当に大切なのは、リスクがどれだけあるのかを冷静に判断した上で、極力エキセントリックな態度を排して、慎重に事実に基づいた情報を提供していくことだと思います。

リスク・コミュニケーションの課題

  • 背景に国民のリスク感覚のひずみがあるのでは?
  • 「絶対安全」(ゼロ・リスク)の呪縛から脱するには?
  • リスクを定量的にとらえる感覚をいかに醸成するか
  • メディアにも自覚が必要
    ・「白」か「黒」か、二者択一が好きなメディアの性癖
    ・社会に与える影響に対して自覚が必要
    ・メディアはリスクコミュニケーションの主役の一人
  • 技術者と市民の協議の場を増やす
  • オーフス条約」(「環境に関する、情報へのアクセス、意思決定における市民参加、司法へのアクセスに関する条約」)の考え方を普及させる

 

●市民自ら科学にアクセスする努力を

 
  もっとも、新聞報道自体も白か黒かの議論に陥りやすい傾向があります。その原因には、紙面の制約という別な条件も影響しています。限られた紙面にいろいろな情報を載せなければならない新聞では、すべての記事が常に競争関係にあります。そういう中で、極端な例では「人が犬を噛んだ」といった異常なニュースほど人々が反応しやすく、いち早く紙面を埋めていくことになると、どうしても白か黒かで自分の記事をアピールしたくなってしまうわけです。
 ただ、読売新聞の場合、「ダイオキシン」「環境ホルモン」「環境化学物質」というキーワードでデータベースを検索すると、この7、8年は明らかに記事の件数が少なくなっています。それは、事実を超えるような報道は止める、そして、驚かさなければニュースにならないような情報ではなく、もっと他の必要な記事に紙面を割く、という報道の原点を守ってやってきたからで、環境ホルモンの報道も、大局の方向が見えて、ニュースとしての相場観が分かってきたころから、記事の数がだんだん少なくなってきました。
 むろん別な見方もあるでしょう。テレビや週刊誌のように娯楽の提供を目的とするメディアには、事実より話題性、面白さの提供に重点を置き、事実の判断や真偽は別途判断すればいいという立場もあります。ひとくちに「マスコミ」「メディア」と言ってもさまざまな役割があります。メディアによっていろいろな特性があることを、知っておいてほしいと思います。
 新聞記事とテレビのニュースショーは違うものなのです。すべてのメディアをひとまとめに考えている人もあるかもしれませんが、それはむしろ視聴者、読者にとって不利益になりませんか。これだけメディアが身近になっているのですから、市民にもメディアごとの特性を理解してその利用法を考えてほしい。それは、市民の権利であると同時に義務でもあると思います。
 科学についても同じことが言えます。科学技術の発達で便利なものがふんだんに使えるようになった今日、全部の領域は理解できなくとも、その科学技術や化学物質がどんなものなのか、自分なりにアクセスしていくことができます。これは市民の権利と同時に義務にもなっているのではないでしょうか。
 だからこそコミュニケーションも大切になってくるわけで、その間を結び付けていくのが我々科学ジャーナリストの仕事なんだろうと思います。
 

●科学ジャーナリスト塾の試み

 
  サイエンスコミュニケーションの大切さが増してくるのに合わせて、我々科学ジャーナリストも、与えられた役割を果たすべく様々な試みを続けています。例えば、1994年7月に発足した日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)は、第1回科学ジャーナリスト世界会議の開催(1992年、東京)を契機に、日本国内の関係者がお互いの連携を強化する場として設けられたものです。
 また、2002年からはJASTJの主催で科学ジャーナリスト塾も開講しています。ジャーナリストを職業にしないまでも、科学ジャーナリスト的センスを持つ次代のコミュニケーターを育成していこうというのがこの塾の狙いで、受講資格は年齢、性別、国籍を問いません。現在(第4期)放射性廃棄物や科学教育などテーマごとに8つの講座が編成されており、私もアドバイザーとして化学物質の講座を担当しています。
 ところで、この塾にはノーベル化学賞を受賞された白川英樹先生も第3期生として参加されています。このように科学者自らが「科学を正しく伝える」ためにコミュニケーションやジャーナリズムの領域へ一歩踏み出そうという意識を持ち始めていることも、最近の注目すべき動きといえます。
 研究の現場でもコミュニケーションの必要性への認識は広がっています。リスクコミュニケーションやサイエンスコミュニケーションの講座を開設してる大学も増えてきているし、国も「21世紀 COEプログラム」として、中核的研究拠点(COE=センター・オブ・エクセレンス)を進めるために集中的な予算配分を実施しており、科学と社会の疎通、サイエンスコミュニケーションにも重点をおいています。また大学ごとに見ると、北海道大学の「科学技術コミュニケーター養成講座」、東京大学の「科学技術インタープリター養成プログラム」、早稲田大学の「科学技術ジャーナリスト養成プログラム」などで取り組みが進められています。
 このほか、お茶の水女子大、神戸大学など、学生だけでなく社会人向けのレクチャーを開いて市民も巻き込んだ活動をしている学校もあります。こうした試行錯誤の中から、やがてはいくつかの筋道が見えてくるはずです。
 化学工業界も積極的にリスクコミュニケーションに取り組んでください。それと今年50年を迎えた水俣病事件の総括もきっちりやってほしい。化学物質に対する市民やメディアの過敏な反応、ネガティブな反応は、どこにその原点があるかを辿っていくと、水俣事件の総括をしていないことに突き当たります。あの事件の経緯を総括し、どこまでが本当で何が嘘だったのか、コミュニケーションとして何がまずかったのか、そこから化学工業界が学び取るべき教訓は何なのか─痛みを伴う作業かもしれませんが、しっかり検証すること。その上で、化学物質にはこういう危険もあるが、こういうメリットもあるということを、志を持って伝えていってほしいと思います。
 
 
■プロフィール 小出 重幸(こいで しげゆき)
1951年、東京都生まれ。読売新聞社編集委員。お茶の水女子大学非常勤講師・日本科学技術ジャーナリスト会議会員。北海道大学理学部高分子学科卒。1976年に読売新聞社入社。社会部、生活情報部、科学部などを経て、2005年6月から現職。地球環境、医療、医学、原子力、基礎科学などを担当。主な著書に、『夢は必ずかなう 物語 素顔のビル・ゲイツ』(中央公論新社)、『いのちと心』(共著/読売新聞社)、『ドキュメント・もんじゅ事故』(共著/ミオシン出版)、『環境ホルモン 何がどこまでわかったか』(共著/講談社)、『日本の科学者最前線』(共著/中央公論新社)、『ノーベル賞10人の日本人』(同)、『地球と生きる 緑の化学』(同)などがある。