●東洋型の環境観
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近年、『地球環境にやさしい』という言葉が盛んに使われますが、そもそもなんで地球環境にやさしくなければいけないのかというと、これは実はたいへんな議論を要する問題です。まずはこのへんのところからお話ししてみましょう。
環境についての考え方は時代の変遷でいろいろあると思いますが、大別すれば環境と人間を対比的に考える西洋型と、環境も人間も一体に考える東洋型の2つのタイプに別けられるでしょう。
人間を神が造ったものとして絶対視する西洋型の環境観では、人間生存と環境の間にリスクに対するバリア(防御壁)を張って、環境への負荷もできるだけ少なくするが、環境から来るリスクの跳ね返りは全部ゼロにしようと考えます。人間の命を表現するにしても「地球より重い」といった言い方をしたりします。
一方、生命は時の流れの中で浮沈を繰り返すものと捉える東洋では、人間生存と環境との間にはっきりした壁がなく、多少のリスクは許容しつつ何となく両者が共生しています。私はこうした環境観を持続文明型と呼んでいますが、これでいくと人間の命は決して地球より重いとは言えません。例えば、今後500年間、あるいは1000年間にわたって恐らく2,000億ぐらいの人が地球を共用するとして、1人の人間が使える地球はせいぜい2,000億分の1程度でしかないということになります。
私はどちらかと言えば、東洋型こそ人間と環境の本来の在り方だと思います。なぜなら、自然のリスクは決してゼロにはできないからです。飲料水の中の砒素のリスクとか、私たちのまわりには天然起源のリスクもたくさん存在します。それをゼロにすることは、理想ではあっても不可能です。
また、西洋型の「環境負荷を少なくする」という考え方が正しいことは認めるものの、人間が生きている限り地球環境に全く負荷をかけないなどということはできません。エネルギー消費ひとつ取ってみても、地球が数十億年かけて蓄積してきた資源を、人間は、石油に至っては150〜160年で使い切ろうとしているのです。 |
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●環境問題の空間軸と時間軸
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つまり、なぜ「地球環境にやさしく」なければならないのかと言えば、それは「人間と環境との共生をできるだけ長く持続するため」だと私は思います。そして、そのためには、人間と自然の間のバランスを考えて、環境に与える負荷をどの程度に抑え、かつ人間に対して跳ね返ってくるリスクをどの程度まで許容するのかということを議論することが必要なのです。
ところで、環境問題を語る場合、時間軸や空間軸のどこを基点にして語るかで環境問題の中身も保全すべき対象も全然違ってきます。私は21世紀の環境問題というのは、個人や個体の健康といった狭い空間の公害問題ではなく、森林保護や地球上の生態系全体、あるいは地球全体を視野に入れた発想が求められるのではないかと考えます。個人の健康だけを守りながら開発を進めるというこれまでのスキームを変えて、もっと広い範囲でものを考えなければなりません。東京だけ、日本の環境だけをよくしてもダメなのです。
時間軸のほうは、10年先の環境を考えるのか、あるいは100年先、1000年先なのかということですが、私の場合は当面500年程度先までを考えればいいと思っています。というのは、今後500年間は化石燃料だけで何とかやっていけると思うからです。
その後は新エネルギーが発見できなければ人類も終わりかもしれませんが、もしそれが確保できれば高い健全性を保ったまま次に進むことも可能でしょう。特に太陽エネルギーとその変形である再生可能な資源、すなわち森林資源や自然農業、太陽光発電などを再生量の範囲内で使用していく限りにおいては、500年先以降も人類はまだやっていけるだろうと思います。 |
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●トータルリスクミニマム論
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以上のような基点に立って長期持続型の可能性を考えた場合、複数の手段があると思いますが、とりあえず重要なのは循環型社会をどう実現するかということです。ただ、循環型社会にしてもリスクゼロということはあり得ません。リサイクルにもリスクは伴うのです。
ところが、日本人は時に行き過ぎるところがあり、リスクは完全ゼロにしなければならないと信じ込んでいる人が多すぎます。ごみ問題でも、ゼロエミッションという方向自体は間違っていないとしても、だからといって本当に完全にゼロにすることなどできないのであって、どこかに適当な妥協点が必ず見出せるはずです。
適当な妥協点などというと一見ぼんやりとした議論のように思われるでしょうが、要するに、人類の今後500年間の生存という長期的な視点からリスクをミニマム(最小限)にしていくという考え方です。私はこれをトータルリスクミニマムと呼んでいますが、現時点でリスクをゼロにするという考え方と、500年後を見越してトータルにリスクを最小限にするという考え方とでは、恐らく問題の解もかなり違ったものになるでしょう。
循環型社会を実現するには、社会のシステムを循環型にするだけでなく、市民レベルでリスクをどこまで受容できるのかを考えなければなりません。その議論をしない限り、循環型社会を構築することは不可能です。
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●「リスクゼロ思想」の誤り
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それから、リスクゼロに付随して予防原則という厄介な問題があります。「環境リスクがゼロでないものは使用すべきではない」というものですが、はっきり言ってこれはリスクゼロ思想に基づいた誤った考え方です。
もっとも、この主張をする人たちも予防原則が常に成立するとは思っていないようです。予防原則にもやっぱり適用条件というものがあるらしく、「代替物が存在すること」「代替することによってリスクが低下すること」「リスクが非常に大きい場合を除いてリスク−ベネフィット議論が成立すること」の3点が、予防原則を適用するための暗黙の条件となっています。
例えば、アルミはアルツハイマー症に関係すると言う人もいますが、だからといってアルミの薬缶を使うなという議論にはなりませんし、商用電力による電磁波で白血病になるという疫学上のデータはあっても、商用電力を交流から直流にしろという話にはならない。実験で確認できない上に、そのリスクが、直流に切り替えることで必要となる多大な投資に値するほど高いとは考えられないからです。
このように、予防原則とは言いながら、我々は既に何とはない暗黙のうちにリスクを許容しているわけです。にもかかわらず、一部の環境運動が特定の製品についてリスクをゼロにしろと叫ぶのは、バランスの取れた考え方とは言えません。
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●拡大生産者責任の必要性
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塩ビの場合も、批判的な市民の大かたの主張は「塩ビ=ダイオキシンだからダメ」という程度のものです。しかし、今必要なのはトータルにリスクのバランスを評価して、その許容値を求める視点であって、分かりやすいところだけを魔女的に取り上げて潰していけばいいという考え方は、あまりに古いと言わざるを得ません。
むろん、塩ビについてもまだ問題は残っています。確かに焼却炉の改善でダイオキシン発生量は低減していますが、焼却炉の中に持ち込まれる塩化水素の量という点では塩ビに一定の責任があることも事実です。そういう意味では、塩化水素に限らず、二酸化炭素で環境に負荷を与えるようなものも含め、これからの工業製品はすべて拡大生産者責任という考え方に切り替えざるを得なくなるでしょう。拡大生産者責任とは、「製品のライフサイクル全体にわたって、完全に処理し切れるところまでの費用負担の原則」を意味します。
環境によい製品デザインにしたからそれで終わりというのではなく、その製品が社会システムにかけている一定の負担は、やはり製品の価格に反映すべきです。これはいますぐというわけではありませんが、21世紀型の環境経済の原則はやはり拡大生産者責任にならざるを得ないと思います。
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●皆でより良い利用法を考えよう
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塩ビは人類が使うことのできる重要な材料のひとつです。ただ、何でもかんでも塩ビと言われると私も抵抗感があって、例えばペットボトルのような容器を塩ビで作ってほしくないし、作るなら分別できるように表示をしてほしい。また、焼却灰の中に塩素が残ること、塩素処理のために苛性ソーダなどが必要になることなどを考えると、なるべく塩ビが焼却炉に入るということは避けたいというのが、私の基本原則です。
上手に最適な条件で使えばトータルな環境負荷を逆に下げる可能性がある一方、使い方を誤るとリスクやその処理コストを高めるかもしれない材料。これは塩ビにも、他の工業製品にも言えることです。だからこそ、みんなでより良い利用の方向を考えることが大事なのです。
特定の材料について「これは絶対ダメだ」とか、「使うべきでない」ということは極めて短絡的なリスクゼロ議論から出ていることであって、トータルリスクミニマム論から見ると、そんなものは本当は存在しないのではないかという気さえします。
こうした議論は必ずしも旗色が鮮明とは言えないので、運動のムシロ旗にはなりにくいものです。しかし、大きな方向としては間違っていないと思うし、市民運動側も産業界も「地球にやさしい」ということの真の意味を理解すれば、肯定せざるを得ないだろうと思います。
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●なぜ「環境の世紀」なのか
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21世紀は環境の世紀と言われますが、なぜそうなのかというと、私は大きな疑問を感じます。確かに人類の文明は環境に数々な被害をもたらしてきました。これからも温暖化の被害が急速に広がったり、ごみが日本中に溢れかえったり、化学物質の蓄積で生態系を破壊するということは考えられます。しかし、それだから環境の世紀なのでしょうか。
本当はそうではなく、これまで開発は善という考え方で環境に一方的に負荷をかけてきたのを、これからは環境の中に人間を配置し直して、全体として環境を保全し環境と共生していかないと人類は持たなくなってしまう。だからこそ21世紀は環境の世紀なのではないでしょうか。
私は持続型の環境学というものが将来絶対必要になると信じています。数百年の単位で人間と地球との在り方を最適化し、「持続」という考えに照らしてリスクをトータルでミニマム化すること。環境リスクの総合的な評価法を開発して、長期的な持続型のスキームを社会的に受容させること。これが、私の現在取り組んでいる最大の課題です。
この考え方は、市民運動的社会理解とはずいぶん乖離しています。しかし、何もダイオキシンだけが環境問題ではないのです。
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■プロフィール 安井 至(やすい いたる)
昭和20年東京生まれ。43年東京大学工学部合成化学科卒。48年同大学大学院工学系研究科博士課程修了。平成2年7月から同大学生産技術研究所教授。工学博士。日本セラミックス協会理事、日本LCA研究会会長などを歴任。セラミックスの分野で材料設計などを専攻する一方、環境問題ではLCAなどによる環境総合評価法の研究に取り組む。環境、エネルギー問題などについてリスク論に根差した緻密な分析を展開する個人ホームページは、問題の本質を理解する上で多くの示唆に富む。主な著書に『光材料−アモルファスと単結晶』(大日本図書)、『リサイクルのすすめ』(丸善)、『市民のための環境ガイド』(丸善ライブラリー)などがある。
※ホームページアドレス
http://plaza13.mbn.or.jp/~yasui_it/
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