●「知識蓄積型」から「考える教育」へ
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環境教育とは何かと尋ねられても、なかなか一言では答えられません。日本では一般に、環境に関する知識やリサイクル技術の伝達、蓄積といったことを環境教育と捉える傾向が強いようですが、これは決して環境教育の本質とは言えません。
例えば、学校をリサイクルの拠点にするために、アルミ缶やスチール缶を子供たちに集めさせて数を競わせるようなことが本当の教育と言えるでしょうか。ごみ問題を真剣に考えようとすれば、まず第一にはごみを減らすこと(リデュース)、次に再利用(リユース)、最後に再生(リサイクル)という優先順位が基本であって、「はじめにリサイクルありき」ではないのです。
ドイツの環境教育に学ぶべき点が多いことは確かですが、小学生の文房具にまで環境に配慮した製品を使っているといった表層的な面だけに注目して、その技術を日本に移してもあまり意味のあることとは思えません。それは結局、大人の価値観を押し付けることに過ぎないからです。環境活動の底辺を広げるという意味ではそれもいいかもしれませんが、これを環境教育の本質と思われては困ります。
要するに、ごみをリサイクルすることを教える前に、ごみを出さないことの大切さを教えるという発想が現在の日本の教育には不足しているのです。さらに大事なのは、なぜごみを出してはいけないのか、ごみを出さないためには何を解決したらいいのかを子どもたち自身が実体験を通じて自発的に考え、判断できるような能力を育てること、言い換えれば、従来の知識伝達型、知識蓄積型の教育から探求創出表現型の“考える教育”に転換すること。この点にこそ、環境教育の本質があると言えます。 |
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●「生きる力」を育てる
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文部省の中央教育審議会が平成8年7月にまとめた第1次答申では、「生きる力を育てる」ということを今後の教育改革の基本的な方向として掲げています。「生きる力」とは、「自分で課題を見つけ、問題の構造を明らかにし、自分でその解決方法を見いだして、実行していく能力」、さらに「自分の考えを表現できるコミュニケーション能力」という意味で、答申はそういう能力を育むことがこれからの学校教育に最も求められるものであることを提言しています。
この文脈は環境教育の在り方にもそのまま当てはまるものです。人間は生きていく上で地球を使わせてもらっているのであって、地球は人間だけのものではありません。微生物の働きがあってこそ私たちがおいしいものを食べられるように、ともに生き生かされているという自然への感謝の気持ちを持って、地球を大事に使っていく方法を見出すことが、いま人類に求められています。
そのためには、地球環境の中で何が問題で、その問題を解決するにはどんな方法があるのか、そして自分はどう生きればいいのかといったことまでも含めて、探求し、解決策を実行する能力を養わなければなりませんし、時には、自分の生き方や道徳観を変えるだけにとどまらず、社会の仕組みやマナー、ルールを変えなければならないというところにまで行き着くはずです。
ここまで言えば、環境教育とは取りも直さず「生き方教育」に他ならないということが理解されると思います。環境教育は決して知識の詰め込み教育ではないのです。 |
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●「体験すること」の大切さ
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環境教育の先進国であるイギリスでは、環境教育の要素としてFOR・ABOUT・THROUGH・INという基本原理を採用しています。地球環境のために(FOR)、知識を学び(ABOUT)、環境改善を通して(THROUGH)、体験する(IN)ことが必要だというこの考え方は、いま述べたとおり、ほぼそのまま日本の環境教育にも取り入れられています。
特に、体験は環境教育の重要な要素です。この場合の体験には、自然体験、生活体験、社会体験の3つがありますが、中でも自然体験は豊かな感受性を育てる上で最も大切な要素で、幼児期から継続していかなければならないものです。豊かな感受性を持てば、自然環境や社会の仕組みの中で何がおかしいのかを感じ取ることができ、その疑問が次の探求心につながります。『沈黙の春』のレイチェル・カーソン女史が述べているように、豊かな自然体験は種を蒔く土壌を育てることであって、土壌を育てずにいくら種を蒔いても種は枯れてしまいます。
生活体験は、偏差値で測れるような学力ではない知恵や直観を働かせる基盤となります。社会体験とは人間関係づくりのことです。現代人は子供も大人も豊かな人間関係をつくることが下手になっていますが、人間同士の信頼関係という基盤があってこそ初めて学んだことが生きてくると同時に、いろいろな価値観を持つ人と問題解決へ向けてコミュニケーションすることも可能になるわけです。
こうした体験を経て、社会における自分の生き方や価値観が形成され、問題解決能力が養われていく。解決策を見つける時にも、マルかバツかの二者択一でなく、多くの解決策の中から代替案も含めて目配りできるような柔軟なオルタナティブの発想が身についていく。環境教育にはそういうプロセスが大事だと思います。 |
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●文部省、環境庁の環境教育政策
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環境教育に関する日本の取り組みは、イギリスなどに比べて遅れていましたが、文部省は環境教育検討会を設置して取り組みを開始し、平成3年には中・高校教師向けの指導資料も作成されました。平成10年〜11年にかけては、中教審の答申などを受けて小中高の学習指導要領が改定され、平成14年から学校教育の週5日制の実施と同時に、現代的な教育課題として環境、国際化、情報化、健康・福祉などをテーマとした「総合的な学習の時間」が新たにスタートすることになっています。
一方、環境庁の中央環境審議会も昨年の12月24日に、これからの環境教育の方向と具体的な推進策をまとめた「これからの環境教育・学習――持続可能な社会をめざして」と題する答申を環境庁長官に提出して、本格的な取り組みを始めようとしているところです。
私も環境教育小委員会の委員長として審議に参加した一人ですが、この答申では、環境教育の推進の方向として「つなぐ」という概念が重視されています。
「つなぐ」とは、《場をつなぐ》(家庭、地域社会、職場、学校、野外活動など)、《主体をつなぐ》(国民、行政、事業者、民間団体など)、《施策をつなぐ》(行政の様々な政策手法)というように、教育の機会や人材などそれぞれの多様な要素を相互横断的に連携させることで、環境教育を体系的、継続的に進めていこうという考え方です。
当然、学校のカリキュラムも社会科、理科、国語、家庭科などの連携が必要になりますし、行政の政策も各主体別々ではなく関係省庁のコラボレーション(協働)が求められ、環境庁と文部省の連携もこれから大きく進んでいくことになります。
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●「総合的な学習の時間」を活用する
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例えば、平成14年から小中高での完全週5日制と「総合的な学習の時間」が正式に始まると、週末には地域の親たちがサポートしてフィールドに出かけ、そこで子供たちが気づいたことを「総合的な学習の時間」や各教科の連携によって学校教育の中にフィードバックしていくといった活動も可能になります。
フィールドといっても、別に自然の中だけに限ったことではありません。都市でも構わないし、政治の状況を見ることでもいいと思います。例えば、私は長いこと「まちワーク」というNGO的な勉強会を主宰していますが、これは郊外より人工的な環境デザインや校庭改善を通して環境を学ぶということを目的にしています。私はもともとは建築出身なので人工的な環境をテーマにしたほうがやりやすいということもありますが、街や校庭は意外に豊富な教材に恵まれた場所なのです。
総合的な学習の時間については、先進的な学校では既に実践している例も出てきています。ただ、指導要領が決められているわけではなく、地域の特性、地域のテーマを見つけて体験型の学習を実施するという大枠が決められているだけなので、学校の独自性が広がると同時に、現場の教師の質の向上も求められるという点は注意しておかなければなりません。
なお、中央環境審議会の答申には、具体的な推進策として、「原動力となる先導役・人材の育成」「具体的な行動に結び付く学習プログラムの整備」「実践的体験活動を行うことのできる場や機会の拡大」「国と地方公共団体の役割分担と連携」といった項目が挙げられており、今後中長期的な計画に基づいて実効性のある取り組みが進められていくことになっています。 |
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●1本の木の観察から生まれるもの
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面白いエピソードをひとつご紹介しましょう。京都のある中学校の理科の先生たちが、どうやって生徒たちに探求創出型の学習をさせたらいいのかを考えた末、理科や生物の知識を教え込む前に、地域の児童公園や学校の校庭に生徒を連れていって好きな木を1本選ばせ、その観察経過を大体2カ月に一遍、1年間にわたって4枚から6枚の画用紙に記録させました。
観察の過程で生徒はいろいろな発見をします。どうしてこの木の幹は黒いのかとか、なぜこの葉っぱはこんな形をしているのかといった疑問も出てきます。そこで先生は、最後にこの観察記録を生徒たち自身の文章を添えて1枚のポスターにまとめさせ、その後に初めて教科書の知識を教えました。すると、生徒たちは驚くほどの早さでその知識を吸収していったといいます。葉っぱは教科書にあるとおりだとか、花びらは木の種類によって5枚だけではないということが体験を通じて理解されたわけです。さらに興味深いのは、先生がまとめとして生徒に言った言葉です。「1本の木でも季節や角度の違いでいろいろ違いがあるように、友達だっていろんな場面で違うんじゃないだろうか。1回付き合っただけじゃ分からない」。生徒たちはこの言葉の意味をすぐに納得したといいます。
このエピソードは、知識蓄積型の教育から探求創造表現型への転換ということがどういうことなのかを示しています。体験と感動を共有する中から自然への意識が芽生え、多様な価値への認識と他者への寛容さ、コラボレーション能力が育つことを如実に物語っています。 |
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●生涯学習としての環境教育
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最後にひとつ注意しておきたいのは、環境教育は何も子どものためばかりのものではないということです。子どもには大人が思う以上に大人が見えています。その意味で、環境教育における大人や家庭の役割は非常に大きいし、学校だけに押し付けて済む問題ではありません。環境教育は大人も子どもと一緒に学ぶべきものであって、生涯学習の大きなテーマと言えます。
また、環境教育は決して直接的な即効性を求めるものではありません。環境教育を受けた子どもたちがすべて環境保護の運動に携わる必要はないのです。直接的な行動はできなくても、環境マインドを持った技術者、あるいは政治家や文学者になってもいいのです。
環境問題というといつも自然科学系の人だけ出てくるように思われますが、この問題は決して自然科学だけのものではありません。ある意味では極めて政治的な問題であり、また経済的な問題でもあります。時には精神性に関わる問題でもあり、言葉や文化の問題でもある。中央環境審議会の答申では、環境教育には「ものごとを相互関連的かつ多角的にとらえていく総合的な視点が欠かせない」と指摘していますが、このように一側面だけでは捉えられない間口の広さを環境教育は持っています。始めに「一言では答えられない」と申し上げたのは、そういう意味でもあるわけです。
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■プロフィール 小澤 紀美子(こざわ きみこ)
北海道生まれ。(株)日立製作所システム開発研究所研究員を経て、現在、東京学芸大学教授及び附属教育実践総合センター長。工学博士、技術士(地方及び都市計画)。専門分野は住居学、住環境論(まちづくりと市民参加)、環境教育。主な著書に「豊かな住生活を考える――住居学」(彰国社)「生涯学習としての環境教育」(国土社)「まちは子どものワンダーらんど――これからの環境学習」(風土社)「まちワーク・地域と進める『校庭&まちづくり』総合学習」(風土社)などがある。 |