1.化学物質リスク管理の動向
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化学物質の環境リスクに対する社会的関心の急速な高まりを受けて、今年に入って化学物質リスク管理の強化に向けて2つの大きな動きがあった。1つは「ダイオキシン類対策特別措置法」(ダイオキシン対策法)であり、もう1つは「特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律」(いわゆるPRTR法)である。
この2つの法律は、これからの化学物質のリスク管理の方向を示すものである。すなわち、ダイオキシン対策法は従来から行われてきた、特定の有害化学物質を対象とした排出規制を強化するものであり、PRTR法は幅広い化学物質を対象に自主管理を柱とした新たなリスク管理の枠組みを提供するものである。
わが国における化学物質のリスク管理は、産業活動に伴う環境汚染がもたらした深刻な健康被害の発生を契機とする規制によって始まった。
環境汚染を通じた長期にわたる暴露が人の健康に悪影響をもたらすおそれのある化学物質の製造・使用を規制する「化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律」(化審法)が成立し、一方で人の健康を阻害するおそれのある有害化学物質について水質環境基準が定められ、それを達成する方策として排水規制が始められた。
これらの規制は、当初想定されていた環境リスクに関しては一定の効果をあげたものの、新たなタイプの汚染が顕在化するたびに規制の強化が必要となった。
トリクロロエチレン等の地下水汚染の顕在化を受けて、化審法が改正され、有害化学物質を含む排水の地下浸透が規制された。
また、水質環境基準が18年ぶりに見直されるとともに、見直しを継続的に行っていくために要監視項目が設けられた。今年になって要監視項目の調査結果に基づいて、ホウ素、フッ素、硝酸性窒素及び亜硝酸性窒素の3物質に水質環境基準が設定され、それを達成するための規制が現在検討されている。
水に比べて化学物質対策の遅れていた大気についてもベンゼンなど、3物質について環境基準が設定され、排出規制が始められている。
さらに、ダイオキシン対策法も規制によってリスク管理を行う方式となっているが、これまでの規制に比べて内容が強化されている。耐容一日摂取量を定め、それに応じた大気、水、底質及び土壌の環境基準を設定することを求めているが、複数の環境媒体について同時に環境基準が設定されるのは初めてのことである。
また、大気環境基準の達成に向けて、化学物質では初めて総量規制が盛り込まれている。 |
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2.包括的な化学物質管理に向けての動き
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しかし、規制は対象事業者に負担を強いるため、科学的知見が十分に集積されてからでないと実施することは難しい。このため、どうしても後追い的になり、新たな汚染の発生を防ぐことはできても、規制前に生じた汚染が残ってしまうことになる。
ダイオキシン類については、廃棄物焼却施設の改良を中心とした発生源対策の効果が見られ、大気や水への排出量は1998年度には前年に比べ1/2以下に減少しており、大気濃度も低下しているが、土壌や底質中に残留しているため、主に魚介類を通じた摂取量は容易には低下しないおそれがある。このような残留する汚染の浄化に多大なコストがかかることは、現在行われている土壌・地下水の浄化対策の事例を見ても明らかである。
このため、人の健康や生態系に悪影響を及ぼすおそれのある化学物質を幅広く管理する方策が検討されてきた。先進的な地方自治体は、国に先駆けて事業者の自主管理と事故時対応の体制を整備することなどを求める化学物質管理指針を策定している。
また、神奈川県では、先端産業の立地にあたり化学物質の環境リスクを半定量的に評価し、当該事業の可否を事業者自らが評価するための指針を策定している。
国においても、有害大気汚染物質のリスク管理を知見の集積とリスクの程度に応じて段階的に行う制度を設けている。
人の健康に影響を及ぼす可能性を否定できない化学物質を指定し、有害性や検出実績などの基礎情報を収集する。その結果、取り組みの強化が必要な化学物質を優先取り組み物質に指定して体系的な調査を実施し、健康影響に関する知見や環境濃度の状況等から健康影響のおそれがある化学物質について環境基準を設定し、規制を行っていくという枠組みである。
この中では、規制の対象とならない化学物質についても事業者による自主的な取り組みを求めている。特に、優先取り組み物質については、業界団体ごとに大気への排出量の目標を定めた自主管理計画の策定を求めている。
一方、水についても、大気と同様に段階的にリスク管理を行う枠組みが設けられている。環境基準項目と要監視項目に加え、個別物質ごとの環境リスクは大きくない、あるいは不明であるが、リスクの性格や複合影響の観点から知見の集積が必要な要調査項目を300項目リストアップしており、このうち規制の対象となる環境基準項目以外についても事業者の自主管理を求めている。 |
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3.包括的な化学物質管理の柱となるPRTR
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このような事業者の自主管理を促進する中心的な役割を果たす制度として設けられたのがPRTRである。
PRTRは、OECDの勧告を受けて環境庁が1996年度からパイロット事業を行い、また化学工業界を中心とした事業者自らが試行しており、これらの結果を受けて本年7月に法制化されたものである。
導入を勧告したOECDのガイダンスでは、PRTRを「潜在的に有害な物質の様々な排出源から環境への排出または移動の目録もしくは登録簿」と定義しており、この中には大気、水、土壌への排出や移動のほか、処理・処分場に運ばれる廃棄物も含まれる。
事業者が自らの事業活動に伴うこれらの情報を把握して報告し、これを国がデータベース化して公表するのがPRTRの基本構造となっているが、わが国のPRTR法では、このような排出量の把握、報告、データベース化に加えて、化学物質を他の事業者に譲渡または提供する際にその性状や取扱いに関する情報を記載した化学物質安全データシート(MSDS)の添付を義務づけている。
(1)人の健康を損なったり、動植物の生息や生育を阻害するおそれがある化学物質、(2)自然的作用による化学変化によって容易にこのようなものを生成する化学物質、(3)オゾン層を破壊することによって人の健康を損なうおそれのある化学物質で、物理化学的性状や製造・使用等の状況から、相当広範な地域の環境に継続して存在すると認められるものを第1種指定化学物質として、排出量の報告とMSDSの添付を義務づけている。また、(1)〜(3)の性状を有し、相当広範な地域の環境に継続して存在すると見込まれるものを第2種指定化学物質として、MSDSの添付を義務づけている。
PRTR法の対象となる化学物質は、環境、通産、厚生の3省庁の審議会で選定作業が行われている。有害性と暴露量の両方からなる環境リスクが一定レベル以上のものを対象とする基本的考え方のもとに行われている。
有害性については、人の健康を損なうおそれのある項目として吸入慢性毒性、経口慢性毒性、発がん性、変異原性、催奇形性を含む生殖/発生毒性及び感作性、動植物の生息や生育を阻害するおそれのある項目として水生生物(藻類、ミジンコ、魚類)に対する生態毒性と、オゾン層を破壊する性質を取り上げ、信頼できるデータに基づき一定レベルを超えるものを選び出している。
暴露量については、把握が困難なため、環境での検出状況及び製造・輸入実績に基づいて判断している。現在、第1種指定候補物質として356物質が、第2種指定候補物質として83物質がリストアップされ、パブリックコメントを受けている段階である。
排出量の報告は2002年度に2001年度実績を報告することから始まるが、これに向けて対象業種や対象事業所の選定、排出量算定マニュアルやデータ集計プログラムの作成、モデル事業の実施などの準備作業が進められている。
PRTR法では、国が策定した化学物質管理指針に留意しつつ、指定化学物質の製造・使用等の取扱いを管理することを事業者の責務として求めており、これにより化学物質の環境への排出量の削減が期待されている。
環境庁のパイロット事業の際に実施したアンケート調査では、半数以上の事業者が化学物質の管理や排出量の削減にPRTRが役に立つと回答しており、PRTRが他の方策と相まって化学物質の環境排出量の削減に効果を発揮するものと期待される。
一方、報告されたデータは集計され、公表されるが、個別事業所ごとのデータも請求があれば、開示されることになっている。これによって、企業秘密にならない限り、個々の事業所の化学物質排出量を誰もが知ることができるようになる。
隣の事業所で排出される化学物質の量を知ることは、一時的には混乱を巻き起こすと考えられるが、リスクコミュニケーションを促進する際にはこのような混乱は避けて通ることができないことがらであり、個別事業所データの開示はリスクコミュニケーションの促進につながると考える。
PRTRのデータはまた、地方自治体が地域の化学物質リスク管理を効率的に進めるのにも役立つと期待される。PRTRのデータに基づき環境リスクの地域分布が把握できれば、潜在的に高いリスクを有する個別事業所の重点的な指導など、効率的なリスク管理が可能となると考えられ、このための手法の開発を急ぐ必要がある。
PRTRは包括的なリスク管理の有力な手段の1つであるが、これだけで化学物質の環境リスクがすべて管理できるわけではない。他の自主管理を促進する枠組みや様々な規制を組み合わせることによって、包括的な化学物質のリスク管理が初めて可能となる。
しかし、PRTR法でも対象とする化学物質の数は数百に過ぎず、工業的に製造・使用されているもののごく一部に過ぎない。PRTR法が対象としない化学物質についても、法律の下で強制されるのではなく、本当の意味で事業者が自主管理を行うことが、包括的な化学物質のリスク管理につながる道である。
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■プロフィール 中杉 修身(なかすぎ おさみ)
1944年東京生まれ。工学博士。1967年、東京大学工学部 合成化学科卒。1973年、東京大学大学院博士課程修了。1974年、国立公害研究所(現国立環境研究所)入所後、資源環境研究室長等を歴任して、現在に至る。1993年より筑波大学教授(社会工学系)を併任。廃棄物処理、地下水汚染、化学物質汚染等を主な研究分野として国の環境行政に幅広く関与し、PRTR法の立案では中心的な役割を果たす。主な著書に『日本のごみ処理』『環境の安全性』『人類生存のための科学(上下)』(以上共著)などがある。 |