1998年12月 No.27
 
「冷静で科学的な議論」が重要、研究者も正しい情報の把握を

  ダイオキシンの発がんリスクと内分泌撹乱物質問題について

 

 国立水俣病総合研究センター所長・秋田大学名誉教授 滝澤 行雄

●IARCの発がん性再評価

 
  去年の2月、フランスのリオンにあるWHOのIARC(国際癌研究機構)が、世界11ヵ国25人の科学者からなる検討委員会を招集して、ダイオキシン類の発がんリスクについて審議を行いました。これは前回の1987年に行ったリスク評価以降10年間に報告された人間のがん発生に関するすべての科学的データを総点検し、評価の見直しを行ったもので、その公式見解は環境保護行政に関わるすべての担当者にとってたいへん貴重な資料と言えます。
  審議結果をまとめたモノグラフ(専門論文)によれば、210種類あるダイオキシンの異性体のうち、発がんリスクの基準分類(グループ1〜3)でグループ1(発がん性があると認められる物質)と評価されたのは 2,3,7,8−TCDD1種類のみで(但し、「条件付き」の1a)、その他の異性体は、これまでのグループ2(発がん性の可能性があると判断された物質)から、グループ3(発がん性があると評価できない物質)に評価が変更されています(別表参照)。
 

●限られた健康影響の疫学的知見

 
  IARCでは、これまで 2,3,7,8−TCDDの評価を2b(発がん性の可能性がやや低いと判断された物質)に分類してきました。米国のEPA(環境保護庁)は、今でもTCDD単独の人間に対する発がん性の証拠は「不適切」なものと評価しています。
  今回の審議では、動物実験でがんを誘発する機構がヒトのそれと類似すること、などを根拠に基準が強化されたわけですが、一方でその評価が「条件付き」の1aとなったのは、2,3,7,8−TCDDによる人間の発がん性に関する疫学的知見が限られているとして、L(limited evidence)と判定されたためです。
  元来、IARCでは人間、動物ともにS(sufficient evidence)と判定される場合に限って「発がん性あり」と評価しているのですが、今回は「各種臓器にがんを明確に引き起こす(S)」と判定されたのが動物実験の知見のみであるため、総合評価に条件が付けられることとなったわけです。
  いずれにしても、人間に対する発がん性は「限られた知見」としながらも、IARCが 2,3,7,8−TCDDをグループ1aと評価したこと、また、その一方で他のすべてのダイオキシンの異性体を発がん性の証拠が不十分なグループ3に分類したことは、生活環境に不偏に存在するダイオキシン類のリスク認知に関して、大きな意味を持つ検討結果と言わねばなりません。
 

●ダイオキシンは「最強の毒物」か?

 
  マスコミの中には、今回のIARCの評価見直しについて、「WHOがダイオキシンに対する評価を『発がん性の疑い』から『発がん物質』に変更した」と書いた新聞が報告書の正式公表の前にありましたが、ご説明したとおり、実際は 2,3,7,8−TCDDだけが条件つきで1のグループに判定され、他の異性体のリスク評価は2bから3へと下がっているのです。
  2,3,7,8−TCDDに発がん性があると言っても、そのリスクはタバコなどに比べて極めて小さいものです。IARCは、大量喫煙による肺がんのリスクを20としていますが、これに対して化学工場の爆発事故のような大量のダイオキシンに曝された労働者の発がんリスクは約1.4に過ぎません。
  化学物質の環境毒性は、魚や動物・人体への蓄積性とその毒性、自然界に出ても壊れない難分解性の3つで決定されます。
  ダイオキシン類は、現代の化学物質の中で最強の毒物と言われていますが、光によって分解され、特に 2,3,7,8−TCDDは他の異性体よりも容易に分解します。
  また、魚への蓄積性もDDTやPCB、クロルデンなどよりも低く、決して「最強の化学物質」ではないのです。
 

●不適切な用語「環境ホルモン」

 
  最近はダイオキシンについても、「環境ホルモン」という側面から議論されることのほうが多くなってきました。
  ホルモンとは本来、生物の内分泌腺から分泌されるものを指し、ごみ焼却場から排出されるダイオキシンや、殺虫剤・プラスチックなどに含まれる合成化学物質(DDEやPCB、ビスフェノールAなど)が、結果としてエストロゲン(女性ホルモン)などのホルモンに似た作用をするからといって、これを「環境ホルモン」と命名するのは正しくありません。
  学術的には「内分泌撹乱化学物質」(以下、「内分泌撹乱物質」)という用語が用いられており、「生体のホルモン作用を阻害する性質を持つ、外来性の毒性諸変化に限定的に用いる」と定義されています。
  我が国では、マスコミや一部の学会が「環境ホルモン」という言葉を使っていますが、この言葉は国民に無用な混乱と不安を招きかねないものなので、ぜひとも学術用語に統一してもらいたいと思います。
 

●確証のない内分泌撹乱物質の影響

 
  内分泌撹乱物質については、10年ほど前に米テキサスA&M大学のステファン・H・セイフ教授が「(DDEやPCBなどが)人体に環境ホルモン様の作用をして乳がんを増加させる」という学説を提起したこと、また、デンマークのニールス・スカケベック教授(コペンハーゲン大学)らが1991年に「ヒトの精子濃度を減少させている」と発表したことで、社会的な大問題になったという歴史的な経緯があります。
  日本でも野生生物への影響の事例として、イボニシなどの巻き貝の雄が雌化したとの報告があり、その原因として漁網や船底などの塗料に使われるトリブチルスズ(有機スズの一種)の影響が指摘されています。
  しかし、内分泌撹乱物質の人体に対する影響については、研究が緒についたばかりで不明な点が多く、これまでのところ十分な確証は得られていないというのが現状です。
  乳がんの増加については、その後、ハーバード大学のデビッド・J・ハンター助教授らの研究で、乳がん患者のほうが一般人よりDDE、PCBの血中濃度が低いということが分かってきて、セイフ教授は「環境エストロゲンと乳がんの関与を示唆したことには誇張があった」と反省していますし、精子の減少についても、スカケベック教授が「(個人的には減っていると確信しているが)科学的なデータの数が不十分なため、本当に減っているかどうかは疑問の余地がある」「(ビスフェノールAなどが危ないという)はっきりした証拠はない」と、今年の10月に来日した時のインタビューで答えています(毎日新聞10月15日)。
  日本でも1975年〜80年、85年〜93年の2回にわたり、18歳から49歳までの自衛官336人を対象に精子濃度の調査が行われていますが、ここでは減少傾向は認められず、むしろ7,090万個/Nから7,800万個/Nに増加したことが報告されています。
 

●トリブチルスズ以外の有機スズは「人体に影響なし」

 
  貝類の雌化は深刻な問題ではありますが、貝類には1万以上の種類があり、その中には1年ごとに雌雄が交替したり、稚貝の時は雌でも成長して雄に転換するといったケースがしばしば認められることなど、貝類の生態の特徴と、気温や温度条件、エルニーニョ等の気候変化などの影響を考慮した因果関係の研究が待たれます。
  こうした問題を完全に究明しないまま、「有機スズが環境ホルモンだ」と安易に騒ぎ立てることに、私は危うさを感じないわけにはいきません。有機スズが人体に影響を及ぼしたという報告はまだないのですから、少し時間をかけて冷静な研究をすべきだと思うのですが「「。
  ただ、有機スズのうちトリブチルスズだけは蓄積性という点で問題があることは、私たちも動物の代謝実験で確認しています。また、人の中毒例、毒性の発生機構などの文献調査でも、トリブチルスズだけは蓄積性に注意しなければならないが、塩ビなどに使われる他の有機スズは「人体に影響はない」ことが分かりました。
 

●一人歩きする「数字」への懸念

 
  先日のことですが、子供がダイオキシンを取り込むと甲状腺ホルモンに異常をきたし、脳に影響を与えるという、九州地区の授乳児の研究結果が新聞で報道されました。
  しかし、我々が紙上に図示されているダイオキシン摂取量と甲状腺ホルモン(チロキシン)量との相関係数を計算したところ、両者の間の相関係数は−0.2と小さく、検定では有意差はありませんでした。私は、こうした数字がマスコミの報道を通じて一人歩きすることを懸念します。
  最近では、少量のエストロゲンの投薬がアルツハイマーのリスクを低下させる(伊国立研究協議会Marzia Baldereschi博士らの研究)とか、高齢男性の心疾患リスクを低減させる(米ハートフォード病院Satyendra Giri博士らの研究)といった研究報告が出てきています。
  薬物的な効果を利用しようという以上、現在、問題になっている環境中の極微量のレベルをはるかに超えるエストロゲン量の投与が必要になってくるわけですが、そのほかにも、人間に医学的な効果をもたらすかもしれない幾多の研究データが出てくると、内分泌撹乱物質の意義はすこぶる大きいものであり、こうした研究が今後人間社会にとって重要な意味を持つでしょう。
 

●日本人の科学知識の問題点

 
  ともかく、ダイオキシンにしても内分泌撹乱物質にしても、個々の測定値だけ過大視するのではなく、全体を医学的、総合的見地からみて、もっと冷静な議論をすることが望まれます。
  ごく最近実施された全米科学財団の調査によれば、日本人の科学知識は先進国14ヵ国中の13番目で、トップのアメリカやデンマークに比べて大きく遅れているということです。
  これは恥ずかしいことであって、科学的な議論をしにくくする遠因になっていることは間違いありません。科学的な議論を行うためにも、日本人はこうした現実を肝に銘ずるとともに、私たち研究者も正しい情報の把握が必要だと思います。

 

 

■プロフィール 滝澤 行雄(たきざわ ゆきお)
 1932年、長野県生まれ。新潟大学大学院医学研究科卒(公衆衛生学)。医学博士。 ’73年秋田大学医学部教授に就任した後、原子力安全委員会専門委員、放射線審議会委員、中央公害対策審議会専門委員、UNEP環境評価パネル委員などの要職を経て、 ’95年秋田大学名誉教授。翌 ’96年から国立水俣病総合研究センター所長。公衆衛生学、特に放射能の研究において世界的な評価が高く、近年はダイオキシン問題などでも注目すべき発言が多い。 ’88年科学技術庁長官表彰「原子力安全功労賞」、’91年日本大気汚染協会学術賞、’92年日本水環境学会功績賞、’95年The International Order of Merit(International Biographical Center, Cambridge, England)を受賞。主な著書に『環境と水銀』『衛生・公衆衛生』『しのびよる公害??新潟水俣病』『ダイオキシンの医学』『環境と人体』などがある。