2007年9月 No.62
 

科学ジャーナリズムのニューウェーブ

ブログを使って双方向コミュニケーション。 「科学の周辺」に注ぐ女性ならではの視点も

毎日新聞科学環境部 記者 
元村 有希子 氏


●文系出身の科学記者


 私は高校までは理系だったんですが、理科が苦手で大学 受験の際、文系に変わったんです。大学では心理学を専攻 しました。カウンセラーになりたかったものですから、特にコ ミュニケーションについて4年間勉強したんですが、そこで 人の話をちゃんと聞く練習を積んだことが、結果的に今の仕 事にとても役立っていると思います。
  ジャーナリストの基本的な条件は人の話を正確に聞くこと です。2001年に科学環境部に異動になったときは、あんな 難しいことを私が伝えられるはずがないと思って、最初は ちょっと腰が引けましたけど、人の話をちゃんと聞いて、そ れをきちんと表現できるという資質があれば、テーマが科学 だろうが政治だろうが文化だろうが、必ずいい記事が書け ると思っています。
 それに、実際に取材を始めてみると科学って案外面白い なと思い始めました。何が面白いかというと、取材相手の研 究者たちは私が理解するまで教えてくれるし、むしろ、世の 中には科学的に分からないことがいっぱいあって、その分か らない事を共有しあって、分かることを増やしていくことが 科学のプロセスなんだと分かってきたのです。この6年間で 科学に向き合う私のスタンスは大きく変わりました。
 分からないことは恥ずかしいことじゃなくて、大切なのは 分かろうとする気持ち、あるいは分からないことを分からな いという形で受け止めることです。そう思うと取材が面白く なってきて、今では、分かりにくいことを分かりやすく伝える ためにどうしたらいいかということを毎日毎日考えています。

●わかりやすく伝える難しさ

 とはいえ、分からないことを分かりやすく伝えるというの は容易なことじゃありません。分かっていることなら自分なり に噛み砕くこともできますが、分からないこと、不確実なこ とを分かりやすく伝えるのはとても難しい。分かりやすく伝 えようとするあまり誤解を招くような伝わり方をする可能性も ありますから。そういうときは、多少難しくなってもありのま まに正しく伝えるほうが大切なんじゃないかと思いますが、 一方で、マスコミの属性としてはどうしても白黒をつけたくな るところがあるし、見出しを一目見ればパッと分かるという 伝え方が奨励される。そこをどうしたらいいのか、いつも考 えています。
 そのいい例がリスクの問題です。先日、「発信箱」というコ ラム欄に「たばこの危険、牛肉の不安」という記事を書いた んですが(5月30日)、これは結構大きな反響がありました。
  「発信箱」というのは朝刊二面の連載コラムで、政治や経 済記事の下に掲載されるのであらゆる階層の人の目に触れ やすいんです。私の担当は毎週水曜日ですが、科学にあま り関心のない人に科学の現状を伝える上では非常に有効な メディアだと思って、切り口をいろいろ考えながら、毎回科 学技術の話を面白く紹介するように工夫しています。
  「たばこの危険、牛肉の不安」という記事は、安井至先生 (国連大学副学長)のリスクスケールを題材に書いたもので、 要するに、たばこというのは10万人当たりの死亡者数が飢餓 とか戦争を除いて一番高いリスクファクターなのに、国は喫 煙を許可しているし、吸っている人も大体はリスクを納得し た上で吸っている。つまり、危険なのに安心というか、不安 に感じない。その対極にあるのがBSEで、先生のスケール によれば、そのリスクは殆ど無視できる最低ランクといって いいにもかかわらず、何で世間の人はこんなに不安がるの か、その安心と安全のシーソーのようなバランスが面白いと 思って書いたのですが、これには賛否こもごもの意見が寄 せられました。「よく書いてくれた」という禁煙活動家、「こ れまで安心と安全が混同して使われていることに気持ち悪 さを覚えていた。それを切り分けてくれてありがとう」という 科学者や理系の技術者の反応がある一方、「こう書かれると牛肉がとても安全のように見える。怪しからん」という不安 を重視する読者の声もありました。

● リスク報道はどうあるべきか─安心と安全の問題

 そのことを通して分かったのは、日本ではリスクということ がまだまだ正しく理解されていない、リスクコミュニケーショ ンが本当におざなりだったんだなあ、ということです。 ジャーナリズム、とりわけ社会部ジャーナリズムというのは、 ゼロリスクで100%安心と安全が保たれた社会こそ理想の世 界と思っているところがあって、読者もまた究極の安心と安 全を求めていると考えがちです。
 でも、ほんとうにそうなのでしょうか。私は科学ジャーナリ ズムは100%の安心安全はないということをこそ伝えなけれ ばいけないのだと思います。世間の騒ぎから一歩引いて、世 の中には天然のものでもリスクがあって気をつけるべきこと は気をつけなければならないということを伝えるのが、これ からの科学ジャーナリズムの役割なんだと思います。そし て、社会部ジャーナリズムのほうも、リスクがあることを前 提に、なるべく事故が起きないような行政システムを提言す るとか、前向きに考えていくような視点を持たなければなら ないと考えます。
 マスコミの特質として、安全だということよりも危ないとい うことのほうが読者に届きやすいのは確かです。新聞という メディアはもともと社会の木鐸と言われていて、危険の兆し を警告するホイッスル・ブロワーの役割があるので、新聞記 者は安全より危険に多くの関心を払います。
 もちろん、それはそれで重要なことではありますが、その 危なさがフレームアップして伝わることが往々にしてあり、 読者のほうも、危ない、買ってはいけないといったメッセー ジのほうにより敏感に反応しやすい。あるいは、そういうダ イナミズムの中で犠牲になったのが塩ビの問題であり、環境 ホルモンの問題だったといえるかもしれません。それをどう 教訓として生かすかがとても大事だと感じています。

●「理系白書ブログ」から学んだこと

 それともうひとつ、マスコミュニケーションというけれど、 新聞は本当にコミュニケーションできているのだろうかという 疑問も日ごろ感じていることのひとつです。コミュニケーショ ンというのは基本的に双方向のやり取りなのに、こと新聞に 関しては一方通行で、送り手の都合、送り手の判断で情報 を伝えるだけに終わってしまいます。読者の反響も時々は届 きますが、それはとてもコミュニケーションといえるようなも のじゃありません。でも、不確実な科学を伝えようとしたら、暮らしの安全とか生死に係わる領域になればなるほど、まさ にキャッチボールのようなコミュニケーションこそ重要になる はずなんです。
  「理系白書ブログ」を開設したのも、そういう思いがあっ たからです。このブログは、2002年にスタートした「理系白 書」という科学欄の連載企画(後出)から派生したもので すが、新聞記事で情報を発信するだけでは得られない、も うひとつの重要なコミュニケーションツールだと思っています。
 とにかく、これをやると新聞記者はとても学ぶことが多い んですね。今までは一方通行だったから、多少分かりにくい 記事になっても分からない人は読まないから怒りもしないだ ろうなんて、何となく甘えていた部分がどこかにあったのが、 ブログを開くと読者からの反響が、誰のフィルターも通さず にそのまま載ってしまいます。あの記事は面白いとか間違っ ているとか舌足らずだとか、評価も批判も含めて、直接私に 届いてきて、しかもどんな人でもその意見を読むことができ るし、議論に参加できる。面と向ってではないけれど、一種 の双方向コミュニケーションが日々展開されるわけです。
 科学者、技術者、外国に居る研究者、それに理系の高 校生なんかも積極的にコメントしてきます。多いときはアク セスが1日5000件を超えることもありました。今は大体3000 〜3500件ぐらいですが、いずれにしても、ブログをやってみ て新聞記者としてのこれまでの活動が真の意味のコミュニ ケーションじゃなかったと改めて感じます。

●マイノリティであることの強み

 最近は新聞社を志願してくる学生の中にも、科学環境部 志望という人がかなり増えてきています。昔は政治部とか特 派員志望という人が多かったのに、このごろは科学環境部 に行きたいという明確な意志を持ってくる人が1、2割以上 は必ずいて、男女の比率もどちらが多いという傾向はなく なってきています。これまでは、科学部を志望するような人 は理系の勉強をしてきた男性のほうが多かったのですが、 今は新聞記者全体で見ても新入社員の4割が女性という時 代ですから、だんだん男女の偏りはなくなってきているよう に思います。
  私は、科学部をめざす女子学生から相談を受けたら、女 性は科学に向いてないなんていうのは迷信だから、そんな迷 信に踊らされることはないとアドバイスするようにしています。
  世間には、長い間に刷り込まれてきたジェンダー・バイア スのようなものがまだ残っていて、学校の理科の実験なんか にしても、女子は後片付けとか記録係とか、周辺のサポート業務ばかりやっている。学校 の先生や親の世代も、「理系 に行くとお嫁にいけなくなる」 みたいな意味不明な迷信に未 だに支配されています。6月 20日の「発信箱」にも<男社 会>というテーマで書いたん ですが、博士課程を出たある 女子学生が某有名メーカーに就職活動をしたら、その社の幹部から「君は女で博士だか ら」という理由で採用を断られた。結局その学生は年収 1000万円でアメリカの企業に行ってしまいました。こんなこ とを言っている企業はこれからは生き残れません。それはも う常識です。考え方そのものが限界なんです。
 研究者の世界を見ても、もともと男性中心だった枠組み の中に女性研究者がなかなか入れないという面はあるので すが、その分女性は流されないという強みを持っています。 マイノリティは王道、本流に乗れないので、自分のテーマを 必死で見つける。それが結果的に未だかつて誰も手をつけていないテーマだったりして、未知の分野ではあるけれど、 その分野では世界の第一人者だということが、けっこう女性 科学者に多いんです。男性は危なくて手を出さない、エスタ ブリッシュされた分野の間の境界領域を女性たちが切り開い ていくということがよくあります。
  ジャーナリズムの場合も、男性の視点で流れてきたところ があるので、女性が気になるテーマと男性が気になるテーマ で違うことがあります。そういうときに、女性が自分の気に なるテーマで書くと非常にオリジナリティが出て注目されたり する。それもやはりマイノリティであることの強みかもしれま せん。そういう多様な視点はとても貴重だと思います。

●科学報道の新たな地平を開いた「理系白書」

 「ブログを含む『理系白書』の報道」で日本科学技術 ジャーナリスト会議の第1回科学ジャーナリスト大賞を頂い たことが、マイノリティの強みだったかどうかは分かりません が、とにかくびっくりしました。科学記者のキャリア・パスと いうのは若い頃からずっと科学をやってきたベテランの人が 多いのに、6年目の駆け出し記者が選ばれるというのは ちょっと申し訳ないような気持ちです。
 ただ、「理系白書」は私ひとりでやっているわけではありま せん。企画書も田中泰義記者と一緒に書いて提案しました。 理系の田中と文系の私が組んだところに面白さがあるんだと思います。私は単純に、日本にはすごい科学者や技術者が いるのに世間に知られていないのはおかしいと思って、そう いう人たちを取材して紹介したいという気持ちでしたが、 「そけだけでは厚みが足りない。研究現場の問題をきちんと 掘り下げたらおもしろい」というのが田中の考えでした。そ れに当時のデスクだった瀬川至朗(現論説委員・水と緑の 地球環境本部長)からもいろいろアドバイスをもらいました。 その3人でブレーンストーミングをする中で骨格が決まって いったというのが実際で、私が中心になってやってきたこと は事実ですが、私だけでなく他に大勢の筆者が係わってい るんです。
 受賞理由では「今までのセオリーに則らない、新しい科 学報道の地平を開いた」と言って頂きましたが、自分ではそ んな意識はありませんね。これまでの科学報道をよく知りま せんし、自分がおもしろいと思ったことをやっただけです。 でも、それが結果的にこれまでの科学報道のステレオタイプ とかタブーに切り込んだことになったんだとしたら、それはと てもうれしいことです。
 大切なのは、科学を絶対視するのでなく相対視すること、 つまり、世間に色々ある物事の中のひとつとして科学を意識 することだと思います。私は今、科学そのものよりも、科学 によって社会がどう変わるか、あるいは、その科学を生み出 した人ってどんな人なんだろうということに興味があるんで す。いわば科学の周辺かもしれませんが、そういう視点もこ れからの科学ジャーナリズムでは重要になってくると思います。




略 歴
もとむら・ゆきこ
1966年北九州市生まれ。1989年九州大学教育学部卒。同 年毎日新聞入社。西部本社報道部、東京本社編成総センター などを経て、2001年から科学環境部に所属。02年1月から、 連載企画「理系白書」の取材班キャップを務め、研究者や技 術者の人生、理科離れの実態、文理分け教育の功罪など、日 本の科学の現場を多様な視点から検証して注目を集める。 2004年9月には「理系白書ブログ」(http://rikei.spaces. live.com)を開設、管理人を務める。 2006年5月 「ブログを含む『理系白 書』の報道」で第1回科学ジャーナリ スト大賞を受賞。他に生命科学、地 球科学などを幅広く取材。毎日新聞 の看板コラム「発信箱」では毎週水 曜日を担当。主な著書に、「理系白 書」(講談社、共著)、「がんに負けな い」(毎日新聞社、共著)など。