2006年3月 No.56
 
化学物質の安全性確保へ向けて

  化学物質のベネフィットを考慮しつつ、
  リスク管理で健康被害を未然防止



 環境省環境保健部 環境安全課長  上家 和子

●化学物質対策の基本「エコ調査」

 
  環境省の仕事は、地球環境や野生生物の保護から、廃棄物対策、化学物質対策、公害対策まで多岐にわたりますが、その中で、「化学物質による環境汚染が人の健康や生態系に与える被害」を防止するため、化学物質のリスクを管理、コントロールするのが環境安全課の役割です。どちらかというと、「起こってしまった健康被害」をリカバーする出口の仕事に対して、被害を未然に防ぐための入口の仕事といえます。
 基本的な枠組みは、一般環境でどれぐらいの有害性(ハザード)を持った化学物質にどれだけ曝されているのか(暴露量)を測り、そのリスクを明らかにした上で(リスク評価)、リスクの大きさによって規制的な管理(化審法:化学物質審査規制法による規制)や届出による自主的取組の促進(PRTR制度:化学物質排出移動量届出制度による取組)などの対策を講じるということです。このうち、リスク評価の部分は環境リスク評価室が担当し、化審法の施行は化学物質審査室が担当していますが、それ以外はすべて環境安全課の担当となっています。
 具体的には、かつて「黒本調査」と通称されていた化学物質環境実態調査(化学物質エコ調査)が、いちばん基本となる仕事です。この調査では、対象とする物質を毎年選定しています。調査の中身は非常に幅広く、媒体は水、大気、底質、生物試料、ヒトの生体試料も分析しいます。一般環境中にあるかどうか(初期環境調査)、環境中での濃度はどのくらいか(詳細環境調査)、経年変化はどうなっているか
(モニタリング調査)、さらには、ヒトが暴露を受ける経路となる室内の空気や食べ物、高次捕食動物の体内蓄積量はどうなっているか(暴露量調査)、胎児や新生児への暴露を見るための臍帯血や母乳などのヒト生体試料調査も実施しています。
 化学物質エコ調査のデータは、環境初期リスク評価に活用されるほか、化審法の運用やPRTR制度の改善、化学物質の内分泌かく乱作用に関する取組み(ExTEND2005)等の基礎資料ともなっています。
 化学物質エコ調査では測定以前に調査を支える様々なパーツの開発、例えば新しい分析法の開発などにも取り組んでいます。一昨年には、国立環境研究所に空気や水、土壌、生物試料などを保存しておくことのできるタイムカプセル棟ができました。これにより、技術の進展によって分析可能となった物質や注目した時点以前の濃度を遡って分析したい物質が、遡って分析できるようになりました。

 

●いわゆる環境ホルモンに対する新たな対応方針「ExTEND2005」

 
  一方、個別のテーマとしては、化学物質の内分泌かく乱作用や花粉症、いわゆる化学物質過敏症、さらには電磁界、紫外線、熱中症など、環境と健康の接点に存在する多様な問題を扱っています。
 このうち、社会的に大きな注目を集めた内分泌かく乱作用問題については、1998年にスタートさせたSPEED'98(「環境ホルモン戦略計画」)を全面的に見直して、昨年からExTEND2005(化学物質の内分泌かく乱作用に関する環境省の対応方針)に沿って新たな取り組みを開始しました。見直し作業は足掛け2年掛かりの大変な仕事でしたが、SPEED'98で得られた科学的知見や反省点に即して、どうにか望ましい方向に軌道修正できたのではないかと思っています。
 SPEED'98では、優先的に取り組むべき物質として65物質をリストアップして濃度測定や暴露試験などを行いました。その結果、ノニルフェノールなど4物質について一般環境中に比較的近い濃度で魚類に対する内分泌かく乱作用の可能性が推察されたものの、ラットによる試験の結果からはヒトへの悪影響を推察させるようなものは確認されませんでした。
 我々としては、一般環境中の濃度がどうなっているのか、そしてその濃度で生態系やヒトに何か悪影響があるのかどうかという点が最大の関心事であり、そのために開発中の試験・評価法を順次試行してきたわけですが、リストだけが一人歩きして、まるで「環境ホルモン物質」というものが実在するような騒ぎになってしまいました。試験・評価法の開発研究に着手する基礎になったという点でリストの意味はあったと思いますが、それ以上に、環境ホルモンリストのようなイメージで受け取られてしまったことは情報提供のあり方の観点からは反省すべき点だったと思います。
 

●野生生物の観察データを体系化

 
  ということで、ExTEND2005では、化学物質の一部に内分泌かく乱作用を有する物質がある、ということであって、内分泌かく乱物質というものが問題なのではない、化学物質の作用の一側面である、ということをはっきりさせるために、まず、タイトルを「化学物質の内分泌かく乱作用に関する環境省の今後の対応方針について」とし、また、影響評価を進めるために作られていた「優先的に取り組むべき物質リスト」は廃止し、すべての物質が対象となり得ることを書き込みました。また、SPEED'98に参加した研究者が特定少人数に偏っているという批判に応えて、調査研究に限らず検討の場面についてはすべて公開の場で行っていくこととしました。
 具体的な取り組みの柱は7本(別掲)。このうち最も大きな目玉となるのは、(1)「野生生物/生態系の観察」と(7)「情報提供/リスクコミュニケーション/環境教育の推進」のふたつで、いずれもSPEED'98にはなかった全く新しい柱です。
 内分泌かく乱作用の問題があれだけ怖がられたのは、一般環境中に残留している低濃度の化学物質が生物の内分泌系に作用するという仮説に影響されたためですが、日本の野生生物にそういうことが起こっているかどうかということを調べたデータは殆どないのが実状です。イボニシについてだけは報告がありますが、トリブチルスズについても、メダカとラットの試験では明らかな内分泌かく乱作用は認められませんでした。この結果から、すべての生物に対して影響を与えると言うものではないことが明らかとなっています。
 一方、蛙が減ったとかヒバリがいなくなったとか言われますが、経年的に追跡したデータはないし、日本にはさまざまな生き物がいるのに、生態系の異変に関する系統だった情報がないのです。あるいは、地域でそういうことを観察している人はいるはずなのに、その情報が行政の化学物質対策にまで届かない、つまり、野生生物や生態系の観察データを体系立てて集める部分が、これまでの化学物質対策には欠けていたわけです。
 「野生生物/生態系の観察」というテーマはこうした問題に対応したもので、地域の川を観察し続けている人とか、地域の生き物の数を数え続けている人とか、そういう人たちとネットワークを作って、何か異変を示す情報があったら、それが化学物質のせいなのか自然淘汰なのか、あるいは湾岸工事のせいなのか、下水道処理の問題なのか、といったさまざまな可能性を専門家が調査する、というような枠組みが作れないかと考えています。

ExTEND2005による取り組み

  1. 野生生物/生態系の観察
  2. 環境中濃度の実態把握、および暴露測定
  3. 基盤的研究の推進
  4. 影響評価のための技術開発
  5. リスク評価
  6. リスク管理
  7. 情報提供/リスクコミュニケーション/環境教育の推進

 

●情報提供、リスクコミュニケーションの大切さ

 
  リスクに関する情報を整理して社会に提供することも、野生生物の観察と並んで、化学物質対策の基幹になる大切なテーマです。

化学物質に関するリスクコミュニケーション

  • 化学物質の環境リスクは低減することが望まれるが必ずしもゼロにすることはできない。
  • 上手にリスクとつきあっていくことが重要
  • このため、すべての関係者(住民、事業者、行政)がリスクに関する正確な情報を共有し、リスクに関して相互に意思疎通を図り、適正な対応を行なうことが重要。

 内分泌かく乱作用の報道では、魚のオスの生殖器にメスの卵細胞のようなものが見えるということで、いきなり「メス化」という言葉がクローズアップされましたが、実際にはその卵が孵ってメダカになるわけではないし、精巣の中に卵細胞があっても精巣としての機能がなくなるわけではありません。また、自然界で通常の状況でそういった状態がある場合もあることは、専門外の人にはあまり認識されていませんでした。そういう裏づけの部分をちゃんと説明する前に、「メス化」という言葉がメディアに躍り出たとたん、少子化もこのせいじゃないのかというような騒ぎになってしまいました。ちゃんと説明する情報提供のスキルがなかったという反省が、このテーマを立てた理由のひとつです。
 それと、これは社会の責任というよりも我々ももっと努力すべき問題だと思いますが、ゼロリスクを求める社会的な風潮があまりに強いことです。私たち人間はいろいろなリスクに曝されながら生きていくものだという発想が欠けてきて、極端な清潔志向、汚染物質排除のような志向がどんどん強まっているように見えます。
 でも、リスクというのは結局比較の問題なのです。食品の添加物から受けているリスクよりもタバコの煙から受けているリスクのほうがはるかに大きいし、農薬や殺虫剤、あるいはプラスチック製品を目の敵にして、微生物がいっぱいいるかもしれない天然素材は安心だと本当にいえるのでしょうか。
 過剰なゼロリスク信仰を修正するためにも、そういうことをちゃんと考える機会をこちらから社会にもっと提案していかなければならないと思います。

 

●天然物は安全といえるか−化学物質と安全につきあうために

 
  化学物質の環境リスクを低減することが望ましいのはもちろんですが、化学物質は危なくて天然ならいいとは絶対に言えません。蜂に刺されて亡くなる人もあればハブに噛まれて死ぬ場合もあります。毒キノコもトリカブトも、天然で有害な作用を発揮するものはたくさんあるのです。むろん、天然のほうが怖いと言っているのではなく、塩でも油でも砂糖でも、すべての物にはハザードがあるということです。
 要は、ハザードの強さだけでなく、それをどれだけ浴びるか、つまり有害性と暴露量の両方を見てリスクを測ることが肝要なので、ケミカルフリーの社会を創れば理想郷だというような考えは大きな間違いだと思います。それと、リスクがあっても使い方によっては役に立つということもあります。
 ただ、人工的に合成された化学物質が天然物と違うのは、もともと自然界には存在しないものだということです。化学物質は生命や生態系を維持するために絶対に無ければ困るというものではありません。化学肥料なども効率よく作物を生産できるからこそ使っているのであって、そうしたベネフィットを考慮しつつ、なおかつ余計慎重に管理していくという姿勢が、化学物質と安全につきあっていく上では、何より大切なことだと思います。
 

●信頼される情報提供への努力

 
  そうはいっても、企業や行政に対する市民の不信感にはとても根強いものがあります。この点については産総研(産業技術総合研究所)が面白いデータを取っています。一般の人にどこの情報を信用するかを訊ねてみると、企業と行政の情報は全然信用されていません。人々が信用しているのは学者・研究者の情報です。また、どこから情報を手に入れるかというと口コミとマスコミが中心になっています。つまり、新聞に載った研究者の言葉がいちばん信用されているということになります。
 研究者の発言というのは、学問的な間違いはなくても、それだけが唯一正しいというわけではないのに、一般の人は確実な情報と受け取るわけです。
 むろん、行政、企業の情報が信用されないのにはそれなりの訳があります。例えば、官庁のホームページなどは一般的に見にくくてなかなか見る気にならないし、企業のほうも水俣病などの昔の問題の影響が依然として尾を引いています。情報をディスクローズしない体質が払拭されているとは言いきれません。人々は、何か本当に大変なことが起こったら隠すに違いないと思っています。
 ですから、企業も行政ももっともっと努力して、信頼される情報を出しつづけていかないと市民の不信感はぬぐえないということを認識しなければならないと思います。私たちも最近は化学物質を分かりやすく説明したパンフレットを作ったりして努力しているつもりですが、まだ十分とはいえません。ホームページも読んでみたいページにしていかなくてはならないと考えています。
 メディアの目を通してではなく直接情報を出すこと、さらに、ただ出せばいいということでなく、皆に読んでもらえる、理解してもらえる、分かりやすい情報を発信することをもっと心がけたいと思っています。既に化学物質の内分泌かく乱作用に関するホームページ(http://endocrine.eic.or.jp)やPRTRインフォメーション広場(http://www.env.go.jp/chemi/prtr/risk0.html)などを立ち上げて、いくつかそういう試みを始めています。ぜひご覧いただきご批判をあおぎたいと思っています。
 
■プロフィール 上家 和子(かみや かずこ)
環境省環境保健部環境安全課長
広島県尾道市出身。昭和57年広島大学医学部卒、平成2年(旧)厚生省入省、大臣官房統計情報部人口動態統計課、児童家庭局母子衛生課、(旧)環境庁環境保健部保健業務課、埼玉県衛生部、厚生省保健医療局生活習慣病対策室、(旧)労働省労働基準局労働衛生課、関西空港検疫所長、環境省環境保健部特殊疾病対策室長を経て平成16年4月より現職。